禁転載

それは山の頂にある古い城。人ならざる者たちが住むという宵の城。

エルデンがその城の庭に入ったのは十二の時だ。
彼は近くの街にたむろす浮浪児たちの一人で、日々の糧を盗みによって賄っていた。
切っ掛けは仲間に切ってしまった啖呵であったかもしれないし、街の警備兵に顔が割れすぎてしまったからかもしれない。
ともかく少年はその日、街を出て滅多に人の通らぬ山道を抜けると、夜になって人外の住むという城の庭に忍び込んだのだ。
街からも山頂にそびえたっているのが小さく見えるこの城には、人ならざる恐ろしい生き物が何百年も住んでいるという噂がある。
だが、同時に山のような財宝があるとの話もまことしやかに語られていた。
そのお宝の欠片でもいいから持って帰ることが出来ればいい、そう思っていたエルデンはしかし、庭に忍び込んだ時点で一人の女に見つかってしまった。
「そんなところで何をしている。迷子になったか?」
月光によく映える銀の髪。新緑と同じ鮮やかな緑眼を持った女は、茂みに隠れる少年を覗き込みながら不思議そうに問うた。
一方エルデンは恐怖に顔が上げられない。ちらりとしか見なかったが、ぞっとするような美貌と肌に突き刺さってくる感覚が、彼女を「人ではない」と判断していたのだ。
「どうした? 迷子ならば山の麓まで送っていってやろう」
女の声はしっとりと纏わりついてくるような質感を以ってエルデンの全身に絡みつく。
だが、その声に乗せられた感情は声自体の妖艶さとは別に、単に子供を気遣うものでしかなかった。彼は溺れるような恐怖を乗り越え顔を上げる。
「ま、迷子じゃ、ない」
女は緑の目を瞠る。その表情は妖女と言うには不思議と近しさを感じさせた。エルデンの視線は彼女に吸い寄せられる。
「ならばお前は何だ? 親はどうした」
「親は……いない。家が、ない」
「そうか」
白く細い手が伸びてきてエルデンの頭を撫でた。女は服の裾を翻して踵を返す。
「ならばこの城に住まえばよい。面倒をみてやろう」
女の歩んでいった後には月の粉が落ちている気がした。エルデンはしばし信じられない思いで彼女の後姿を見やる。
そして、この夜から彼は宵の城の住人となった。

エルデンを拾った女はセレスティナと名乗った。
城には彼女をはじめ何人かの女たちが住んでいたが、セレスティナは彼女たちの中でもっとも年長で、力のある存在であるらしい。
エルデンは彼女に「魔女なのか魔物なのか」と問うたが、セレスティナは「好きに呼べ」と笑っただけだったので、彼は女たちを「宵」と呼んだ。
「宵」は例外なく美しい女であり、彼女たちは昼間はほとんどしどけない姿で寝入っているが、夜になるとふらふらと城内を彷徨い始める。
城には他にも彼女たちに仕える召使や伽をする少年などが住まっていたが、彼らに共通しているのは 「宵」たちと共に暮らすこの生活に満たされているということであり、その顔に恐れや絶望は見られなかった。 「宵」たちはセレスティナが拾ってきた彼に興味があるらしく、廊下などですれ違うと戯れかかってくるが、からかうばかりで何かをしてくるということはない。つまりはそれく らいセレスティナはこの城の主人であった。

「今夜は何の本を読む?」
城の尖塔に位置する彼女の部屋に入ると、セレスティナは窓際からエルデンを手招く。
銀の髪が月光を吸い込んで、少し揺れるごとに光る飛沫を辺りに撒き散らすようだ。彼は女の傍に椅子を置いて座ると、一冊の本を差し出した。
「政の本か。エルデンは真面目だ」
「知っておけば、大人に騙されない」
大人ぶりながらもそう言うとセレスティナは楽しそうに笑う。小さな鈴のようによく響く声は心地よく彼の中に染み通った。
細い指先で「宵」は本を捲るとゆっくりと読み上げていく。時折挟まれる少年からの問いに答を返しながら彼女は夜を過ごす。
セレスティナは彼に触れない。他の「宵」たちのように少年に伽をさせようとはしない。
「面倒を見る」と言った言葉通り、食事を与え服を着せ、そして知識を与えるだけだ。
彼女はエルデンが的を射た質問をすると喜ぶ。そしてまた新しいことを教える。
穿ったものの見方をするとセレスティナが瞠目するのが快くて、彼は「宵」が眠っている時間はいつも、自身の勉強に時間を費やしていた。
大きな街の裏路地で仲間たちと蹲って眠る生活しか知らなかった少年にとって、この暮らしは現実味のない程恵まれたものである。
だが、太陽が城の庭を照らしている時間、遠くに街の姿が見える時、彼はふと今は遠い街でのことを茫洋とした思いで想起することがあった。
昼間の城はほとんどの者が眠っている。
「宵」は勿論、彼女たちと閨にある少年たちも、召使たちも。
誰一人生きているもののいないような城を歩く時、エルデンは不思議な焦燥感に苛まれてならないのだ。

「エルデン、おいで。新しい本を読もう」
毎夜彼女はそう言って少年を招く。
そうしてセレスティナはエルデンに文字を教え読み書きを教え、三年をかけて彼に裕福な家庭の子弟と同じくらいの勉学を身につけさせた。
「お前は人の中にあっては大層な切れ者として名を得るだろう」
いつしか彼女は少年の思考に賛辞を送ったが、
「俺が人の中に帰ればいいと思っている?」
とエルデンが返すと淋しげに微笑んだだけで答を返さなかった。

十五歳になった彼は、セレスティナの背を追い抜いた。
肩も腕も、大人のものとは言い難いが徐々に性別を感じさせるものになっていった。
だが、彼女の態度は少しも変わらない。あの夜エルデンを拾った時と同じように。

「セレスティナは昔人間に裏切られたことがあるのよ」
夜明けが近い寝台の中で、メアリベルは小さな欠伸をすると微笑した。エルデンは彼女の金髪を手にとって口付ける。
「宵」の一人である彼女と寝るのは初めてではない。成長していく彼に戯れかかってくる女たちの一人、もっともあけすけで親しみが持てる女を彼は選んだ。
「裏切られた?」
「そう。だから彼女は誰も傍に置かないでしょう? 私たちは皆、夜を分かち合う相手が必要だというのに」
確かにこの城に来てから三年、エルデンはセレスティナが誰かを寝室に招くことを見たことがなかった。
「宵」は少なくとも一人は自分の少年を侍らせているものだ。なのに、彼女はそれをしない。
だからこそエルデンは皆に好奇の視線で見られていたのだが、彼もまた彼女の相手ではなかった。
彼はセレスティナにとって守り与える相手でしかない。いつまでたっても子供なのだ。
ごく稀に彼女が拾ってきていたという犬猫と、自分が同類の存在だと考えることは、彼に少なくない劣等感をもたらす。
一度その思いに囚われてしまうと、どれ程彼女に勉学の結果を賞賛されても、それがまるで煤けた価値のないものにしか思えなくなるのだ。
「メアリベル」
「なあに?」
「宵」は名前を呼ぶと反射的に媚態を示す。そういう生き物なのだ。エルデンは彼女の唇に口付ける。だがそれ以外のことは返さない。
寝台に溶け入るような白い肢体を抱いて、彼は束の間の眠りの中に落ちていった。

目の前にある銀の髪も緑の瞳も、手を伸ばせば届くのにそれに触れることはない。
エルデンは分厚い書物を開きながら、時折窓際に座る「宵」を見上げて、彼女の嬉しそうな微笑を確認した。
かつては彼女が彼に読んでくれていた本は、今は彼が彼女に読むことの方がずっと多い。
城に山ほどある蔵書の全てに彼女は目を通したことがあるというが、「エルデンが読んでくれると新たなことに気づくのだ」と言って彼と共に過ごす日課を歓迎していた。
「エルデン、遠い東の国では、身分に関係なく優れた者が大きな仕事を担うのだ。素晴らしいことだと思わぬか?」
「俺の知る、あの街よりは。でも何故そんなことを? セレスティナはその国に行きたいのか?」
「いいや……。お前ももうすぐ十六になる。この城を出て行くならばお前をきちんと評価してくれる国に行くほうがよいであろう?
 当面の財ならばこの城にあるものをいくらでも持って行けばよい。ここで眠っているよりお前に使われる方が宝石も幸福だろう」
城の主人たる彼女の言葉に、エルデンは薄々予想していたその日が近づいていることを知った。
「宵」に侍る少年たちは十六歳になると外に帰る。その際には報酬として多額の財宝を持たされるが、代わりに二度と城に戻ることはできない。
三年の間にも「宝石などいらないからここにいたい」と言った少年たちが何人もいたことをエルデンは知っていたが、「宵」たちは悲しげな顔をしながらも例外なく彼らを外に送 り出していた。
「俺は、あなたと寝ているわけではない。それでも外に出なければならないのか?」
召使たちの中にはもっと年かさの男もいる。だからエルデンは自分は或いはその中に入るのではないかと思っていたのだ。
しかしセレスティナはゆっくりとかぶりを振った。緑の瞳が少年を見つめる。
「お前は外で生きた方がよい。案ずるな。最後まできちんと面倒をみて、よいところへ送り出してやる」
「セレスティナ!」
彼は怒りに似た衝動を以って立ち上がった。窓辺に座る女を腕の中にかき抱く。
初めて触れる女の体は思っていたより遥かにか細く、頼りなげなものだった。温かい息がエルデンの首筋にかかる。
抱きしめる端から零れ落ちていく銀の髪。間近で見る彼女の貌はとても美しく、そして遠い。
彼女は透き通る瞳に哀惜をたたえて少年を見上げたが、それは彼には憐憫としてしか映らなかった。
「……エルデン。外に行くといい。お前には日の光がよく似合う」
彼は何も返さない。何もしない。
無言のままセレスティナを突き放すと、エルデンはそのまま彼女の部屋を出て行った。

それは、エルデンが城を出る一週間前のことだった。
いつもと変わらぬ朝、「宵」たちが皆眠りについた時間。しかし城に続く山道は人間たちの押し殺したざわめきで満ちていた。
その異変が城の扉に到達したのは、太陽が城の庭を白々と照らし出した頃だ。
武器を持った男たちは大きな槌を以って城の扉を打ち破る。たちまち彼らは狂ったような叫び声を上げながら、静寂の城の中に押し入ってきた。
財宝に目を晦ませて辺りを探し回る大人たちの足元をすり抜けるようにして、浮浪児たちはあちこちの部屋を開けて回り金目のものを懐に押し込む。
壁にかけられた絵も調度品も、あっという間に彼らの手によって略奪されていった。
深い眠りについていた「宵」たちは突然の闖入者に驚き、飛び起きる。
彼女たちのある者は覚醒しきらぬまま惨殺され、ある者は共にいた少年を庇って剣に貫かれた。
不躾な人間たちを鋭い爪で切り裂いて殺し、血に染まった部屋ごと焼き殺された者もいる。
広い寝台で少年を抱いて眠っていたメアリベルは、扉を蹴ってなだれ込んできた人間たちを前に、彼を急いで窓の外に逃がすとそのまま槍を受けて胸を床に縫い止められた。 心臓を打たれたにもかかわらずまだ息がある女を男たちは異様なものを見る目で見下ろしたが、血と財に既に酔っていた彼らはもがき苦しむ美しい女の姿に獣欲を覚える。 次々と上に乗ってくる男たちの背に爪を立てようとしたメアリベルの手は別の男の手に押さえつけられた。血が彼女の金髪を深紅に染める。
最後の力を振り絞って呪詛を吐きかけた彼女はしかし、その時見覚えのある姿を男たちの背後に見出して息を飲んだ。
「エ、ルデ、ン」
剣を取り、かつて抱いた女を冷ややかな目で見下ろしていた少年。
彼は、メアリベルが絶命する瞬間まで何の慈悲も返さなかった。

人間たちが快哉を上げて走り回る城内をエルデンは一人歩いていく。
かつて誰一人の気配も感じなかった明るい廊下は、今は血の臭いと下卑た笑いを上げる男たちで祭りの日のように騒がしかった。
彼ら全員を扇動してこの城に導いた少年は、何の感情もない視線で三年の間自分を育てた場所を眺める。
街に戻れば彼は今回の功績を称えられ、貴族の娘と結婚することが既に決まっていた。
窓から庭を見やった少年は、ふと背後から自分の名を呼ぶ声に気づいて振り返る。
「エルデン! こんなところに居たのね!」
「ラリーナ。あなたまでここに?」
「あとは皆がやってくれるわ。さぁ、もう忌まわしい場所は充分。私たちの街に帰りましょう」
数人の護衛に囲まれた婚約者の少女は、エルデンに駆け寄るとその腕を取った。焦がれる目で彼を見上げる。
だが不意に、よく通る美しい声が廊下に響いた。彼の名を呼ぶ鈴のような声が。
「エルデン」
その場にいた人間たちは彼女を見出して時を止める。
そこには月光のように美しい女、この城の主が一人立っていた。

少女の悲鳴と同時に護衛たちはセレスティナに切りかかった。だが彼らは人外たる女に一太刀も浴びせることが出来ぬまま、逆に切り裂かれて崩れ落ちる。
彼女は血の滴る長い爪を振ってエルデンを一瞥した。その瞳に浮かぶ感情が何なのか、彼には分からない。
少年が死を覚悟した時、だがセレスティナは舞うように彼の目前に跳びこむと、無言のまま彼の体を抱いて攫っていった。
「エルデン!」
悲痛な少女の声が背後に聞こえる。
しかし女の腕の中にいる彼は振り返らない。何も言わない。
ただ温もりに目を閉じていた彼が気づいた時、二人は城の尖塔、夜を過ごしたあの部屋に辿り着いていたのだった。

「セレスティナ」
名前を呼んでも彼女は何も言わない。真っ直ぐに緑の瞳が彼を見つめているだけだ。
とても遠い双眸。そこに少年は焦燥を覚えて口を開く。
「セレスティナ、俺は、あなたを裏切った」
朝になると城を抜け出して街に走った。かつての仲間を使い、人心を弄して貴族に取り入った。
昼ならば人外たちは皆寝ていると、自分が案内すれば城には容易く入れると、財宝をちらつかせて彼らを指嗾したのだ。
彼女に習った知識を惜しみなく使ってエルデンは彼女を裏切り、城を滅ぼした。
「セレスティナ、だからあなたは俺を殺すのだろう?」
血に濡れた爪。彼女はそれを見やると服の裾で血を拭った。長かった爪が元に戻り、白い指が見える。長く彼の為に本を捲ってくれた指をエルデンはじっと見つめた。
彼女は一歩を踏みしめるように彼の眼前に立つ。細い手が一本伸びてきて、彼の頬に触れた。
「ああ。私はお前を殺す」
唇が触れるほどの距離。囁かれる言葉にエルデンは陶然と目を閉じた。
死が、すぐそこに立っている。それは彼が知る何よりも甘く、芳しいものだった。
衣擦れの音が聞こえる。滑らかな腕が首に回される。今にも首を裂かれることを覚悟して、少年は息を止めた。
「だから私も共に死んでやろう」
驚きに胸を突かれて、エルデンは目を開ける。
幾許かの自失。瞠目。
目の前にいる女は日の光の下に艶かしい裸体を曝している。
染み一つない白い肌には月光の粉が振りかけられているように見えた。
言葉を許さぬ口付けが彼の唇に押し付けられる。少年は震える手で彼女を抱きしめた。
柔らかな躰。吐息。狂気を支配する熱。
冷たい石床の上で最後の「宵」を抱きながらエルデンは充足に酔う。
これが終われば、待っているのは死だ。
長年誰も触れたことのない躰。その最奥は彼の動きに呼応して蠢く。
だから、少しでも長く「今」が続けばいい。
それは少年の心からの望みで、死を恐れる気持ちでは、少しもなかった。