坂を下る

 その家は、人通りも少ない急な坂道の上にありました。
 少し薄汚れた印象を受ける中古の一軒家でした。どうやら元の家主は会社の重役でらした方のようで、使わなくなった家を借家の一つとして提供してくださったというのです。築年数は十五年ほど。一階はリビングダイニングキッチンと浴室、六畳の和室が一つで、二階は三つの洋間があり、幼い息子と三人暮らしの私たち家族には広すぎるくらいの家でした。はじめは突然の転勤による引越しを憂いていた私も、庭まであるというこの家の話を主人から聞いて、大いに興味が沸いてきたくらいです。
 取引先の会社の社員であった主人とちょっとしたごたごたを経て結婚し、勤めを辞めてから七年。小さなマンションで妻として母としてのみ生活してきた私は、生活の変化というものに存外惹かれていたのでしょう。思い切って溜め込んだ色々なものを処分すると、最低限の荷造りをして新しい家へと移りました。主人の車で坂道を上がっていく、あの時の茫洋とした期待を今でもよく覚えています。
 家に入った時の第一印象は「意外と綺麗だ」というものでした。廊下の壁の染みや床板の傷など、年月の蓄積を感じさせるものは多々ありましたが、前にもこの家を借りていた方が綺麗に使ってらしたのか、床も丁寧に磨かれており窓ガラスも埃に曇っているなどということはありませんでした。引越し前に近所の奥さん方から散々「上手い話はなかなかない」と脅されていた私はまずそのことに安堵したものです。家の中を走り回りたがる息子を押さえ、引越し業者に家具を入れてもらうと、私は荷解きの前に全ての部屋を見て回りました。ごく当たり前の、私たち家族には少し贅沢な一軒家。不満を覚えたのは一階和室の畳の色焼けくらいで、けれどそれは大したことでもないように思えたのです。ええ、この時は。

 はじめにおかしいと思ったのは、新しい家に移ってから一月ほど経った時のことです。
 この家のリビングは坂道の行き止まりに面しており、夕方カーテンを引く時などは坂途中の街灯の光まで見ることができるのですが、等間隔に並んだうちの一本、ちょうど坂の中ほどの街灯の後ろに、時折じっと動かない人影が見えるようになったのです。
 最初は近所の人間の誰かかと思いました。そうでなければおかしいと思ったのです。この辺りには普通の住宅の他に何もありません。なのになぜ、街灯に隠れて立っていたりするのか。親に怒られた子供が様子を窺うためにそうしているのではないかと私はまず考えました。もっともこの思いつきは後にそうではないと気づきましたが。
「ねぇ、あなた、あれ見える?」
 珍しく主人が早く帰って来たある日の夜、私はリビングの窓からやはりあの人影を見つけ、ソファで雑誌を読んでいた夫を手招きしました。少し冗談めかして、けれど幾許か不安を抱きながら。
 思えば私は、主人が何かもっともらしい説明をつけて私を安心させてくれることを期待していたのかもしれません。主人は幽霊や超常現象の類を一切信じない人でした。たまにテレビでそのような番組がやっていると「あれはトリックだ」などと真面目くさって合いの手を入れるくらいです。ですから私は、この日も同様に彼が怪しい人影について否定してくれると信じていました。
 けれど主人はこの時、眉間に皺を寄せて厚いカーテンの隙間から外を見やると、なぜか慌てて顔を引いたのです。そしてそのままベージュのカーテンをぴったりあわせ、中から外が見えないようにしてしまいました。私が驚いて「どうしたの?」と聞くと蒼ざめた顔で「何でもない」と答えます。
「どうしたの? 街灯の影なんだけど。どんな人だか分かった? まさか幽霊なんて言わないわよね?」
「いや」
 歯切れの悪い様子は、まるで本当にありえないものを見てしまったようでした。今まで見たこともない蒼い顔を目の当たりにして、私までうすら寒くなってしまったほどです。早く何か言って欲しいと、私がそう思ったにもかかわらず主人はそそくさと居間を出て書斎に閉じこもってしまいました。息子も既に寝ている時間、リビングに残ったのは私一人です。
 キッチンから聞こえてくる水滴の音。ぽつぽつと時を刻む頼りない音だけが、がらんとした部屋に響きます。普段は気にならぬ天井の染みが妙に薄汚れて見えました。未だ馴染みきっていない新居の中に立ち尽くす私は、何かに引き寄せられたかのようにドレープカーテンに手をかけます。
 隙間から見える夜の広がり。私は目を凝らして坂道を見つめました。手前から一本……二本……と街灯を数えていき、いつもの三本目で止まります。
「え……?」
 そこに人影はありませんでした。さきほどの黒い影は錯覚だったのか、ガラス戸に額をつけて闇を見つめても何もいません。気の抜けた私は大きく息を吐き出し窓辺を離れました。坂途中にある三本目の街灯より奥にある家は我が家だけだと私が知ったのは、その数日後の買い物帰りの時です。

 管理職をしている主人は休日でも仕事で家にいないことが多く、家事育児は全て主婦である私の仕事です。
 前の家に住んでいた頃には、同じような立場の方たちが近所で愚痴を言い合う場にも出くわしたことがありますが、私は別段このことに不満を持ってはおりませんでした。外で遅くまで働いている主人のため家の中を過ごしやすく整えるということは、妻として当然のことです。それに何よりも息子の弘は私にとって宝そのものでありました。昼間三歳の息子と二人だけで過ごす時間は気苦労も多くありましたが、それに見合うだけの幸福は充分に得ております。どこへでもついてきたがる弘のつたない言葉に相槌を打ちながら家事をこなしていく……この生活が私の平穏であり、心の支えでもありました。
 その日もクローゼットを開け主人のスーツを手入れしながら、私はしきりに「これなに」と尋ねる息子に受け答えていました。微かに漂う甘い香りとそれをかき消すそよ風。けれどそこに、あの声が割り込んできたのです。
「嘘つきめ」
 低いしわがれた声。それは、とても近くから私の耳に届きました。
 思わずぞっとして振り返るも、後ろには不思議そうな顔をした弘しかいません。ですがあれは、とても子供の声には聞こえなかった。男とも女ともつかぬ得体の知れない声。たった一言の中に明らかな悪意を感じて私は震え上がりました。聞き間違いだろうか。でもそれにしては妙にはっきりと聞こえました。他に誰もいないのに。まさか、そんな、馬鹿な。
 信じられないという思いがまず先に立ちました。私は主人ほどではありませんが幽霊話など信じてはおりません。ですからこの時は、疲れからくる幻聴ではないかと片付けることにしたのです。そうでなければおかしいと。
 ですが、この声はその後もやまなかった。
 主人の帰りを二人で待っている時、台所で夕飯を作っている時、そしてリビングの窓から坂道を窺う時、声は唐突にすぐ傍から聞こえてくるのです。
 「苦しい」「許せない」、そしてついには……「死んでしまえ」と。

 坂道の上にある我が家には隣家というものが存在しません。坂があまりにも急であるためか途中から住宅はなくなり、その突き当たりにこの薄汚れた家があるだけなのです。そして半ば孤立しているような立地の家に越してきた私には、ふた月過ぎてもまだ友人と言える友人ができていませんでした。たまに見かける近所の女性たちも、私に気付くと遠目にひそひそ話をするだけで近づいてこようとはしません。
 怪しい話を信じない夫も、まだ幼い息子も、こんなおかしな話の相談相手にはなりえない。自然、全てを一人で抱え込まざるをえなくなった私は、次第に追い詰められていったのです。
 
 正体の分からぬ声に悩まされていた私が、取り込んだ洗濯物を和室に広げ畳んでいた時です。声は、いつものように私の背後から聞こえてきました。
「死ね」
 楔のごとき憎悪の言葉。私の手は打たれたようにびくりと震えました。主人の白い下着が畳の上に落ち、頼りない様で広がります。
 ですがそれを拾うことなどとてもできなかった。私を助けてくれるものなど、周囲に何一つないのです。
 どれくらい硬直していたでしょう。私は右手で自分の胸を押さえながらようやく後ろを振り返りました。そこには電車のおもちゃで遊んでいる弘が、小さな手を止めて私を見つめています。
「おかあさん、どうしたの」
 ――ああ、その時私は気付いてしまった。
 必ず背後から聞こえてくる声。けれど私の後ろにはいつも、弘しかいないということに。

「この家、前にどんな人が住んでいたの?」
 その質問を口にするまでには、私なりの葛藤がありました。街灯に隠れる人影、弘の口から聞こえる言葉、どう考えても異常な出来事を、ただ異常として片付けていいのか毎晩悩んでいたのです。
 けれど、このままでは私は、おかしくなってしまう。
 いえ、私だけがおかしいのなら、まだ我慢できるのです。ですが弘が、あの子が、あんなことを言うなんて……。
 だからこそ私は、思い切って主人に前の住人について聞いてみることにしました。最近の異変は明らかにこの家に引っ越してきてから始まったことです。原因があるとしたらこの家に関係しているとしか思えない。一度疑い始めてみると、あちこちの壁にある染みや傷が途端、不気味なものに見えてきました。そして私に決して近寄ってこようとしない近所の人たちのことも。けれどそんなおかしさとは無縁でいるのだろう主人は、読んでいた雑誌から顔を上げずに聞き返してきます。
「どうして急にそんなことを」
「ちょっとだけ気になって。だってここ、急な坂道の上にあるでしょう? 自転車なんか使えないし、前に住んでいた方の奥様は苦労されたんじゃないかしら」
「買い物が大変なのか?」
 思わぬ方向に転んでしまった会話に、私は慌てて手を振って否定しました。
 今の生活に不満を持っているわけでは決してないのです。主人はこの転勤を喜んでいる。言葉にして言われなくてもちょっとした態度で分かります。朝家を出て行く足取りが前よりも軽いことや、遅く帰ってきても不満を口にしないこと、毎週休日出勤をしていることなどなど、一つ一つ挙げだしたらきりがありません。だから私も不満は言わない。言いたいことは、そんなことでは、ない。
「そうじゃないのよ。ただちょっと……」
「俺もよく知らないよ。会社の人間ってことは確かだが」
「そう。ありがとう」
 私はソファから離れると、主人が雑誌に集中していることを確認してリビングの窓へと近づきました。そしてカーテンの隙間からそっと外を窺います。
 いつも光と同じ分だけ影を産み落とす三本目の電柱。そこに、彼女の影はありませんでした。

 翌日私は弘を連れて最寄の図書館へと向かいました。そこで過去の新聞に目を通し、かつてあの近辺で何か変わったことがなかったか調べようと思ったのです。正直なところ私は、幽霊や呪いのように得体の知れない存在が一連の異常の原因だとは信じていませんでした。けれど、何もせずにいつも通りの日々を過ごすことなどできそうにない。私は弘に絵本を数冊与えると、必死で新聞の地方版をめくっていきました。三十分後、二年前の小さな記事に目を留め、言葉を失います。
『三歳児虐待死事件。実母に懲役十年』
 その見出しに書かれていた地名は、あの家の住所に含まれるものと同じでした。
 ああ、やっぱりそうだったのだ……。
 記事には具体的な家の場所までは書かれていませんでした。けれどそこは、きっと私たちの住むあの家なのでしょう。子供が死んで母親が捕まった後、醜聞を書き立てられた父親が同じ家に残り続けることはできなかったに違いありません。
 私は焦って新聞を片付けると、弘を抱き上げ図書館を飛び出しました。キィキィと軋むベビーカーを押して足早に来た道を辿り、急な坂道の下に辿りつきます。上がってしまった息を整える間、私は灰色の坂道を見上げていました。緩くカーブして空へと上っていく道。その先は、あの家へ繋がっているのです。それ以上どこにも行けない行き止まりの家に。
 帰りたくない。けれど他に帰る場所などありません。私は重い足を引き摺ってベビーカーを押し始めました。一歩足を前に出すごとに、重苦しくどろどろとしたものが胸の底に溜まっていきます。
「許せない」
 低い声。私はびくりと体を震わせるとベビーカーの中を覗き込みました。けれど弘は手の中のおもちゃに夢中になっているらしく私の視線に気付きません。まるでこの子の意思とは無関係に無念の声だけが外へと洩れ出ているようでした。
「苦しい……許さない」
「お願い。そんなことを言わないで……」
 今のこの子と年の変わらぬ子が、孤独な家の中、母親の手によって命を断たれた。それはどれほど痛ましく、やりきれない悲劇でしょう。私は、そんなことをしたくない。だから言わないで欲しいのです。聞きたくない。どうか言わないで。
「……死んでしまえばいいのに」
「弘!」
 ぼそりと呟かれた声に続く悲鳴は坂道の上、やけにむなしく響きました。持ち手に顔を埋め、しゃがみこんだ私に弘の無邪気な目が向けられます。
「おかあさん?」
 声を殺して泣きます。けれど、誰も助けてはくれません。

 「この家を出たい」と私が主人に切り出した時、既に引越しから半年近くが経過していました。
 ええ。その時私はもはや限界に達していたのです。
 怪しい人影は変わらず街灯の影に現れる。不穏な声は頻度が増し、最近では日中無言電話までかかってくるようになっていました。その度ごとに私は目を閉じ耳をふさいで蹲り「何も気にすることはない」と自分に言い聞かせていましたが、それでも積み重なるストレスは私を徐々に蝕んでいたのでしょう。もう回数を数えることもできぬほどかかってくる無言電話を切った直後、私はしつこく「あそんで」とまとわりつく弘に苛立ち、感情のままその頬を打ってしまったのです。
 手に残る感触と弘の泣き声。その衝撃で我に返った私は慌てて膝をついて我が子の体を抱き締めました。必死で謝罪の言葉を繰り返しながら、けれど泣きたいと思っても涙が出ないのです。むしろ私の心は様々な感情が干乾びてしまったかのように枯れはてている。それはきっと閉塞したこの状況の所以なのでしょう。このままでは、きっと全てが駄目になってしまう。私も、この子も、何もかも。
 もう限界だ、とその時思いました。
 私は泣きじゃくる弘を宥めながら旅行鞄を引っ張り出し、その中に当面の着替えを詰め込みました。他県にある実家へ電話をして今日帰る旨を伝えると、主人の会社に電話し同じことを言付けます。最後に新幹線の時間を確認して、私は息子の手を引くと玄関へ向かいました。小さな足に靴を履かせながら「どこへいくの?」と聞く弘に「大丈夫」を繰り返します。
 片手にバッグを持ち、片手に小さな手を引いて見下ろした坂道は、まるで私を嘲笑うかのように曲がりくねって見えました。今は誰もいない三本目の街灯が白々しい姿を日の光に曝しています。
「おかあさん。どこにおでかけ?」
「おばあちゃんのところに帰るのよ」
 鞄にしまっていた携帯電話が鳴ったのは、私が弘を連れて歩き出そうとしたその時でした。着信を見るとそこには主人の名前が表示されています。私は緊張を覚えながら電話を取りました。
「どうした、お前。急に実家に帰るなんて言い出して」
「もう限界なの。私、この家を出たいのよ」
 ついに言ってしまった、と思いました。今までずっと家のために黙って耐えてきた、その均衡をついに崩してしまったのです。
 私はその場にへたりこみたいような脱力感に見舞われながら息子の手をきつく握り締めました。主人の驚いた声が小さな冷たい機械から聞こえてきます。
「何を言ってる。どうしたんだ一体」
「あなたも見たんでしょう? あの時街灯の影に彼女が立っていたのを」
 主人は答えない。
「最近は無言電話もかかってくるのよ。知らないの? 知っているの? ああ、そんなことあなたにはどうでもいいんでしょう。あなたは充分に愉しんでいるのだから。でも私は、この家で暮らすのはもう嫌なのよ。この生活が嫌なの。だからあなた、どうか一人で暮らしてください。いいわよね? ねえ、きっとあなたもその方がいいんでしょう?」
 絞り出す声は明らかに震えていました。それでもこの時、私は確かに小さな快哉を覚えたのです。これで、ようやく解放されると。あんな声、もう聞きたくない。知りたくない。苦しい。弘。私の大事な子。

 空は白い。私はうねる坂道から目を逸らし、流れ行く雲を見つめます。アスファルトの上に投げ捨てられた携帯電話を、弘が不思議そうに見つめました。
「おかあさん、でんわ、いいの?」
「いいのよ。もう終わったの」
「もうこわいこといわない?」
 衝撃が胸を貫きました。ああ、この子はこの子なりに分かっていたのだ。
 主人の嘘。私の嘘。そんなきたならしいものが次々とぼやけた脳裏に去来します。私は申し訳なさに目を伏せると、しゃがみこんで息子の体を抱き締めました。
「もう言わないわ。ごめんなさい」
「うん」
 小さな約束を交わし、私たちは改めてお互いの手を取りました。
 そして私は一度も振り返ることなしに息子と二人、長い坂道を下っていったのです。