ぼんやりユアン

禁転載

走る走る。とりあえず足を止めたら死ぬ。
城の長い廊下を全速力で俺は走っていく。
向こうから歩いてくる女官たちがぎょっとした顔で俺を見ているが、気にしていられん!
次の角を曲がれば二階の渡り廊下に出る。その時が脱出時だ。
後ろを振り返るなどという愚行は犯さず、ただ必死で足を動かしながら……だが俺は不意に嫌な殺気を感じて横に跳んでみた。
ほぼ同時に隣を、矢が通り過ぎていく。
―――― い、意味分からん! 何で城内で矢を射掛けてくるんだ!
幸い角はもうすぐそこだ。
俺はあげかけた絶叫を押し込めると再び速度を上げ、廊下を曲がった。そのまま渡り廊下に出ると手すりを乗り越えて階下の地上に飛び降りる。
廊下からは死角になる位置に逃げ込んで息を潜めると、しばらくして上から「チッ」と舌打ちが聞こえてきた気がした。何で本気で残念そうなんですか。
これは真剣に命に関わる。
気配を殺す。殺す殺す。俺はいません。きっと草かなんかになった。なったからあっち行って。
こんな毎日送ってるからきっと、家に帰るとティナが「またあなたのカップ割れちゃいましたよ」とか言うんだろう。そろそろ石のカップにされそうだ。
とにかく今は俺自身が石像になったみたいに息を殺して―――― ようやく上から殺気が消えた頃には、昼近くになっていた。

「あー、ルーめ、遅刻だぞ」
「城には朝一番に来てたわ!」
何とか暴力王女の攻勢から逃れて武官の詰め所に到着すると、ユアンが不満げな顔で文句を言ってくる。
俺だって来られるものならさっさと来たかったです。何なら代わってくれ。
ぐったりと椅子に座り込むと、近くの壁に寄りかかったままのユアンは呆れ顔で頭を掻いた。
「イリス殿下の花瓶を割るとか無謀にも程があるよな」
「知ってたのか! 助けろよ!」
「無理」
即答すんな。

俺と時期を同じくして城に仕えるようになったこの男は二歳下。何でも下級貴族の出なんだそうだ。剣技も正統そのもの。
貴族といったらもっとお高くとまってる奴らばっかかと思ったら、ユアンは実に気さくに話しかけてくるもんだから初めは吃驚したものだ。
気さくにというか気が抜けたように。いつもぼけっとしてて、寝惚けてるんじゃないか?
俺はユアンが出してくれたお茶を飲みながらやっと一息つく。生き返る思いだよ、まったく。
「ルーは実はイリス殿下が大好きだよな。殺してくださいーって哀願してない?」
「そんな哀願は誰にもしたことない!」
俺はどんだけ変態なんだ! 嫌だ、そんな愛情表現!
そういうことを言うやつには、手近にあった瓶の蓋でも投げつけてやる! えい。
「痛い」
避けろよ、それくらい。一応お前も武官だろ。後ろ足をつかまれたウサギみたいな顔すんな。
「ルーみたいに人間離れした反射神経の持ち主と一緒にしないでほしい」
「別に人間は離れていない」
「ヤモリみたいだよな」
「もっとましなものにたとえろ!」
自分でもちょっと的確な喩えだと思っちゃったじゃないか。くそう。このこそこそしがちな性癖はいつ治るんだ。
「一生治らないと思うよ」
「心を読むな!」
どいつもこいつも! 俺はそんな分かりやすい表情してるのか! 昔はずっと覆面だったから気づかなかったぞ!

ユアンは瓶の蓋を拾い上げると、それを元通り棚の瓶の上に戻してぎゅうぎゅうと締め上げる。
え、その中に入ってるの何? なんかおかしな色したキノコ入ってるけど、こんなの前からあった?
俺は手元のお茶のカップを覗き込む。え? え?
「ダイナ嬢に振られたんだって? こそこそしながら後をつけてるのをラキが目撃したらしいけど」
「振られてないけどこそこそしてました」
その辺はもう触れないでおいてください。はたから見てどうでも、俺にとってはいい思い出だったんですから。
……それよりちょっと手が痺れる気がするのは気のせい? 何で珍しくお茶なんて淹れてくれたの?
残ったお茶をまじまじと見る俺にユアンは頷くと、紙とペンを手にとって俺の前に屈みこんだ。
「まずは手の痺れ?」
「そう。無味無臭か?」
「うん。次は動悸が激しくなるらしいんだけど」
「言われて見ればそんな気もするな。―――― って俺で試すな!」
平然と何飲ませてんだ! 暴力王女からの流れるような攻勢だな! 安息の地に辿りついたかと思って油断しちゃったぞこのやろう!
しかしユアンは何てことのないように顔の前で手を振ってくる。
「あ、死にはしないみたいだから。後遺症が残るかもしれないけど」
「後遺症ってどんな」
「稀に不能になるかもしれない、と」
「絞めるぞ?」
最悪な攻撃を仕掛けてくんな! ある意味それは精神攻撃だ!
「ルーなら別にいいかと思った」とか本当に殺意がわいてくるわ。
とりあえず今は怒るよりも痺れが……不味くないですか、これ。俺は足まで痺れてしまう前に立ち上がる。
「……早退する」
「遅刻して早退?」
「誰のせいだ!」
「じゃあこのキノコは早退キノコと名づけよう」
「捨てろ! 俺の一生のお願いだ!」
こんなところで一生のお願いを使いたくはないが、頼むから捨てとけ。他の人間のためにも。

残念そうなユアンを残して俺は詰め所を出た。今、暴力王女に見つかったら間違いなく死ねる。
普段のこそこそにビリビリが加わって何だか痙攣するヤモリのようになりながらも、俺は何とか三十分かけて家に辿りつき……
「何、薬なんか盛られてるんですか。元暗殺者のくせに」
「……人には得意不得意がある……」
今、お前とまで掛け合いする元気はないんで、いいから中和してください。お願いします。
魔女はぶつぶつ文句を言いながらもよく分からない薬を二種類出してくる。た、助かった。持つべきものは魔女の同居人。
「完全に消えるまでは半日くらいかかりそうですから。ちゃんと寝てるように」
「はい」
「お昼作ってきますよ。少し食べた方がいいです」
ティナは呆れ顔ながらも台所へ消えていく。手際がいい看病といい妙に家庭的なやつだな。あの性格を我慢できる男がいたら、いい奥さんになるかもしれん。

弱っているせいかやつにそんな評価を下したのも束の間のことで。
―――― 五分後、俺はネギたっぷりのスープを前に、前言を思い切り撤回したくなったのだった。