暁光

禁転載

長い旅の終わりは、いつも唐突だ。
それを彼は、何度かの経験で既に知っている。その旅の終わりが「場所」ではなく「人」だということも。

自ら作った帝国を離れ、ルースが広い大陸を巡っていたのはつい昨年までのことだ。
一つ一つの国を街を訪ね「彼女」を探す旅。それは残念ながら何の成果も見出せないまま終わった。
早くて数年。長くて数十年。
片翼が不在である時期は、時間の感覚が曖昧だ。
まるで全てが停止しているような、逆に何もかもが駆け足で過ぎ去っていくような感覚。
自分たちが明らかに人と違うということを、孤独の時間はよく思い出させる。
そして違うからこそ、次の機会が得られるのだということも。
「こちらの大陸は久しぶりだな……」
元々の故郷である西の大陸は、彼が昨年まで回っていた東の大陸とはいつのまにか大分様相を変えてしまっている。
二つの大陸を分けるもっとも如実な違いは魔法の有無で、二百年の間にほとんど魔法が途絶えて「魔術」と呼ばれるようになってしまった東の大陸と違い、西の大陸はそれが文化技術と絡み合って広く人々に認知されていた。
船から下りたルースは、街の露店で当然のように並べられている魔法具を見つけ、苦笑を浮かべる。
ここまで二つの大陸間に差異が出てしまった原因はいくつかあるのだが、そのうちの一つが百年以上前にあった大戦だ。
当時東の大陸にあった大国が、優秀な魔法士を連れ去る為に西の大陸へと侵攻した戦争。
この大戦の詳細まで彼は知らないが、それ以来、西は東へ魔法具を売ることをやめた。
同時に東へ渡航する魔法士もいなくなり、それまで言語や文化などに類似が見られた二つの大陸は、以後まったく異なる道を歩むことになったのである。

数少ない西への船を探し、大陸を渡ってきた男は、港町の空気を肺いっぱいに吸い込む。
これからしばらくはまた旅を続ける毎日だ。「彼女」を探して広い大陸を歩き続ける。
その旅がいつ終わるのかは分からない。東の大陸を丹念に回るのでさえ五十年以上かかったのだ。
いつ彼女が再び生まれるのかも分からない。焦りすぎてはよくない。
そう思って町を出た彼はしかし―――― すぐ三つ目の街でその揉め事に出くわすことになった。

闇夜の白刃は、石畳に投げ出された明かりを反射して鋭く光った。
霧雨が音もなく降り注ぎ続ける街路で、腕を斬られた男は苦痛の呻きを洩らす。
男の仲間たちがそれを見て怯むのがルースには分かった。彼は無言で男たちを威嚇しながら、更に一歩を踏み出す。
彼らからすれば、至極簡単な役目だったのだろう。
現に彼らが追っていた男はルースの背後で蹲っており、怪我を負っているのか既に虫の息であるようだった。
ルースは、足かせが嵌められていたらしい男の痩せ細った足首を振り返って、顔を顰める。
「どうした? この男を追う正当な理由があるなら言ってみろと、先ほどから言っているだろう」
ルースの声音は静かなものであったが、逆らうことを許さぬ威を含んでいる。
その威が実力を伴うものだと思い知った男たちは、顔を見合わせた。中の一人が手を上げる。
「待て。その男は罪人なんだ。主人の女に手をつけ孕ませた」
「違う! 彼女はもともと私の妻になるはずだった! それをあの男が……」
狂ったような叫びは、もはや長くないだろう男のものだ。おおよそを察したルースは不快感を顕にする。
彼は抜いた剣を軽く振ると、無造作に男たちに向かって構えた。濡れそぼった前髪の下、青い目で一同を睥睨する。
「なるほど。なら帰って主人に目的の男は死んだと伝えろ。それで用は足りるだろう」
「だ、だが、まだ女の居場所が……」
「行け。それとも口のきけぬ体になって帰りたいか?」
多対一の有利など微塵も期待させないルースの隙のなさに、男たちは少しの逡巡を見せた。
だがこの場で彼とやりあう危険よりも、主人に叱責されることの方がましと思ったのだろう。すぐに一人残らずその場から走り去る。
静寂が戻ってきた深夜の街路。剣を収めたルースは瀕死の男の傍に寄ると膝をついた。
男がもはや助けようのない容態であることを確認した彼は、「何か望みはあるか?」と問いかける。
「つ、妻を……助けてくれ……」
「分かった。場所は?」
男が最後の力を振り絞って伝えた場所は、隣街の外れにある納屋の一つだった。
ルースがその場所を復唱し「約束する」と返すと、男は満足そうな表情で息絶える。



長い時を、無数の街を、渡り歩いてきた彼からすれば、行過ぎる男の死は何ら目立つところのない悲劇の一つであったろう。
だがそれは、探し続けてきた旅の終わりでもあった。



隙間風の吹き込む納屋。藁の中に埋もれるようにして眠っていた女は、死した彼女の夫と同様痩せ細っていた。
罅割れた肌。落ち窪んだ大きな目。こうなる前は器量のよい女だったのだろう。彼女は、膨らんだ腹を反射的に庇いながら、扉を開けたルースを緩慢な仕草で見上げる。
「誰?」
「お前の夫に頼まれてきた」
女の内から僅かに感じ取れる魔力。
その意味を悟って、男の声は震えた。
ルースは、衰弱しきった女が必死で守ろうとする腹部を見下ろす。
生きていられるはずがない。
これほど弱りきった状態になって、母子共に無事であるはずがないのだ。―――― 腹の中にいるのが「彼女」でなければ。
ならばこれは、誰にとっての不幸で、誰にとっての幸運なのか。
ルースは両目を閉じると、魂を持つ前に死してしまった赤子に祈りを捧げた。
人ならざる道。己の業に苦渋と喜びを覚えると、女に向かって手を伸ばす。
「来い。何ものからも守ってやる」



旅は終わる。
約束は果たされる。
それが何度目の出会いであるのか。
ただ彼は、ずっと「彼女」に贈りたいものがあったのだ。



「名前はどうするの?」
二ヵ月後、遠く離れた街で出産を終えた女は、疲れきった顔でルースに問うた。
女の枕元で赤子を抱いていた彼は苦笑する。
「お前がつけていいぞ。母親なのだから」
「本当に?」
彼女はほっと喜びながらも、どこか不安そうな目を自分の娘に向ける。その視線の意味を察したルースは、赤子を母親の腕の中に返してやった。
女は安堵の目で優しく娘を包み込む。
「……女の子だったら……ミミとつけようと思っていたの」
「そうか。ならこの子はミミだな」
「本当に守ってくれるの?」
婚約者に嫁ぐ寸前、貴族に攫われ数年の間囲われていた女は、今も追っ手を気にしているらしい。
今まで何度も繰り返された問いにルースは頷いた。
「そのつもりだ」
「なら……分かったわ。私の『夫』はあの人だけだけれど、あなたはこの子の『父親』ということにしておく」
「ああ」
それは以前からルースが提案していたことだ。
仮初の家族。けれども偽りのない温かさを、生まれてくる娘に与えたいと。
元々体の丈夫でなかった女は、それまでの心労と出産で弱りきってしまったらしい。名残惜しそうな顔をしながらもルースに再び娘を預けた。
彼が部屋を出て行こうとすると、その背に向かって疲れた声をかける。
「あなたは……いつかその子を、奪っていってしまうのね」
諦観の詰まった言葉にルースは振り返った。
女が長くない自分の寿命を思って言っているのか、もっと先のことまで見抜いているのか―――― 読み取ろうとして、しかし彼はすぐにその行為に無意味さを覚える。腕の中の赤子を抱きなおすと、ルースは苦笑した。
「どうだろう。これを悲しませることはしない」
「そう。ありがとう」
女は安心したのか、安心した振りをしたのか、大きく息をついて横になった。
ルースは黙って部屋を出て行く。



「シェライーデ」
それはかつて、再会を約束した娘の名だ。彼女は今、彼の腕の中で眠っている。
あの時「欲しいものは沢山ある」と笑っていた彼女。彼の力を、愛を請うて死んだ女。
その彼女と、ようやくまた新たな時を始めるのだ。今ここから、今度こそ損なわれることなく。
彼女の言葉を思い出したルースは、小さく笑った。
『叶うなら、はじめから貴方の傍に生まれたかった』
「叶ったぞ」
まずは、ここからだ。最初の願いは叶えた。
そうして一つずつ、彼女に望むものを贈っていく。
家族との温かな時間、平和な幼少期、伸びやかに過ごす子供時代と―――― 代わりない愛情を。
ルースはまだ何も知らぬまま眠っている娘を見つめた。ほとんど重みのない体を大きな手で抱きなおす。
「さて。父親なんてやるのは久しぶりだからな」
笑いながらの述懐に赤子は小さく唇を動かした。言葉ない囁き。そこには無防備な命しかない。
ルースは小さな娘を白い布を敷き詰めた籠の中にそっと下ろす。

長く詩人たちによって語り継がれる皇帝の恋。
これが、その知られざる顛末である。