荒野の城

禁転載

晴れ渡った空は何処までも澄み切って自由を思わせる。
乾いた土。吹き続ける風。地平の彼方まで見通せる大地を、少女はあてどなく馬上から眺めていた。
彼女の隣に馬を並べる男は、砂混じりの風に心配そうな顔になると、荷物の中から薄いヴェールを取り出す。
それを手渡されると少女は小さくお礼を言い、砂と日差しを避ける為にヴェールを被った。白い薄布は彼女の髪をも全て覆い隠す。
彼女はあらためて辺りを見回すと、あるものに気付いて指を上げた。
「……あれは?」
「ああ」
荒野を走る街道。その遥か先からこちらへと砂煙を上げて近づいてくる一群が見える。
男はそれが何であるか気付くと、表情を変え彼女を急きたてた。街道から距離を取り小高い丘の上に移動する。
近づいてくるものは十数騎の騎兵たちであった。
彼らは彼女たちがいる付近よりも大分手前で馬を留め、辺りを見回すように街道を引き返していく。
その男たちの中で、一人だけ身分の高さを感じさせる端然とした男に気付くと、少女は男の背を食い入るように見つめた。
―――― 「彼」の話はよく知っている。国境を越えた先にある城の主。
少年時代より降りかかる苦難を悉く乗り越え、今は城の住人たちを守り荒野を治めているという男。
密やかに憧れていた相手が近くにいると分かって、少女は周囲のことも忘れ、馬を進めようとした。隣の男がそれに気付き彼女を制止する。
彼女はひどく残念そうな顔になったが、溜息をつくと小さくなっていく彼らを見送った。
風に流れて晴れていく砂煙。そして荒野には静寂が戻る。






何処までが虚構であるのか、夢の最中に気付ける者は多くない。
そして夢の中に何処まで真実があるのかということも。
今から始まるこれは、起こらなかった事実だ。手の届かなかった歴史。
巡る時間において虚構は鮮やかに失われた仮定を見せる。

夢を見るのは誰なのか、見せたのは誰なのか。
―――― それは醒めてから全てが明らかになるであろう。






広大なリサイ王国の領土。その南西部はしかし、ほとんどが緑の茂らぬ乾いた荒野である。
雨が少なく、常に強い風が吹いている土地。それはこの国において半ば「空白」と同義だ。
王都から伸びる街道だけが無人の荒野を貫き、国境の先、西に聳える山々へと消えていく。
だがこの空白地帯において茫洋と在る国境を前に、一つだけ緑映える丘とその頂に建つ城があった。

「リグ、来い」
短い呼び声に応えて獣はするりと動く。
天鵞絨のような黒い毛皮が日光を受けて艶めき、しなやかな四肢が優美な振る舞いで石の床を踏んだ。男の足下にたどり着くと獣は膝を折る。
慣れきった従属。南西に面する露台から遠く国境を眺めていた男は、手を伸ばすと黒い頭を撫でた。喉を鳴らす音に彼自身も微笑する。
「見えるか? また商人たちがやって来る」
男が見下ろす先には国境から続く街道があり、そこをやって来る通商の隊列が見えた。
今は豆粒の如き大きさの彼らは、あと一時間もしないうちにこの城にたどり着くだろう。そしてここで最後の補給を済ませてリサイ国の中心へと向かうのだ。
露台から遠い国境を、そしてその先の青い山々を見渡す男は目を細める。
二十代後半、精悍さの漂う貌はけれど、もともとの顔立ちの秀麗さと身に染み付いた気品で、彼の印象を粗野からはほど遠いものとしている。
青い瞳はそこだけ、いつまでも変わらぬ稚気を称えており、彼の私的な性格を如実に表していた。
男は陽光に熱され始めた前髪をかきあげると、不意に踵を返す。
いつまでもここでこうしている訳にはいかない。彼はこの城の主としてやって来る隊商を迎えなければならないのだ。
「リグ」
背後に向かって手招きした右手。
しかしそれは低い唸り声によって応えられた。男は素早く身を返すと欄干に乗った黒い獣の隣に駆け寄る。延びる街道に視線を走らせた。
国境方面に見える砂煙。隊商はまだ背後に迫るそれに気付いていないのだろう。
この状況の意味することを悟り、男は不敵に笑った。城の中に向かって声を張り上げる。
「出るぞ! 馬を持て!」
よく響く声。主の命を受け、城内の空気が変わる。
戦うことを楽しむ男たちは次々に武装を整え己の馬に跨った。
国境を侵す者を、そして街道に現れる略奪者を切り捨て続けるリサイの異端児たち。
彼らの上に立つ男もまた、剣と弓だけを取ると黒い駿馬に騎乗する。常に彼に従う獣がその鞍に飛び乗った。男は笑って右手を上げる。
「行くぞ」
開かれる城門、荒野へと続くなだらかな道を騎兵の軍は駆け下りていく。
風と砂、血と僅かな緑だけが彩る空白の土地。
そこは言わば、王に見捨てられた不毛の地であった。






盗賊団に襲われかけていた隊商は、間一髪駆けつけた騎馬兵たちによって窮地から救われた。
そのまま圧倒的な実力差で賊を追い払った兵たちは、恐縮する隊商を城内へと迎え入れる。
水に恵まれぬ荒野において、この城だけは深く井戸を掘って地下水を汲み出しており、その恩恵は丘に広がりつつある緑を見れば明らかだ。
十数年前には乾いた丘と城しかなかった風景は、城の住人の努力あってか、次第に鮮やかな色を帯びつつある。それはこの城を与えた王からすれば予想もしていなかったこと、言ってしまえば誤算の一つであろう。
そして城が蓄える水はまた、ここの住人だけではなくこれから街道を旅する人間にとっても重要なものである。
隊商の長は救われた礼を言うと共に水を買いたい旨、城の主に申し出た。彼は鷹揚に了承する。
白い石床が美しい広間で、だが城主の座に座っているのが面倒なのか何故か肘掛に寄りかかっている男は、次々に並べられていく貢物を興味がなさそうに見下ろしていた。主の代わりに椅子に座っている黒豹が小さく欠伸をする。
「どうぞお納め下さい、ルース殿下」
「ああ」
街道を行く者が己の安全を買う為に差し出してくるそれらは、彼自身にとって本音を言えば不要のものだ。
そんなものを貰わなくても辺りの秩序を維持するのは彼の仕事であり、代価は彼らが支払っていく水の代金があれば事足りる。
だが、城の者たちはそれらを分け与えれば喜ぶであろう。
男たちは戦いの報酬を受け取って満足し、彼らの妻は珍しい異国の布を嬉々として仕立てに使う。
ルースは城内の庶務を取り仕切る側近に目配せして、それらの分配を命じると自分は広間から出て行こうとした。
その時、隊商の長が引き連れてきた人間たちの中から一人の女が歩み出る。
広間に入ってきた時より男たちの注目を浴びていたその女は、輝くばかりの銀髪に婀娜めいた美貌を持っていた。肩から掛けていた外衣をその場に落とすと、踊り子の衣裳越しによく鍛えられた肢体が顕になる。
隊商の男は女を指し示すとルースに向かって深く頭を下げた。
「殿下にはこの舞姫を。私どもからの心ばかりのお礼でございます」






常にルースと共にいる黒い豹は、彼が女を抱く時はしかし、いつの間にか部屋からいなくなっている。
それが獣なりに気を利かせているということなのかどうか、彼には分からなかったが、少なくとも珍しい動物を触ってみたがる女たちに注意する手間が省けることはありがたかった。
気だるい生温さが立ち込める寝室。寝台から立ち上がった男は窓に寄ると、それを外に向かって押し開く。
途端夜の中から乾いた風が吹き込み、寝台を覆う白い紗布を揺らした。それで目が覚めたのか、甘い女の声が彼を呼ぶ。
「殿下?」
「……ああ」
答える声が一拍遅れたのは、彼が弓のような月に気を取られていた為である。
窓辺に佇む男は眠気を感じさせない目で女を振り返った。
「明日も日差しが強そうだな。馬車から出ないよう気をつけろ。日に焼けるぞ」
それは、彼からすれば純粋に女を気遣う言葉であったが、彼女にとってはひどく驚くものであったらしい。
女は紗幕をかき分けると見開いた目で男を注視する。
「わたくしをここに置いてはくださらないので?」
「王都に行って踊りで稼ぐのだろう? ここに居ても仕方あるまい」
隊商と共に出発しろと、当然のように言う男に彼女は失望を浮かべる。
このような辺境の城にいるとは言え、相手は先代王の息子だ。上手くすれば寵姫の座も狙えると思っていたのだろう。
女の野心を見て取ったルースは苦笑する。
「そう機嫌を損ねるな。俺の傍に留まり続ければ、いずれ殺されるぞ」
「え?」
―――― 誰に殺されるのか。
疑いと恐れの目で自分を見てくる女に、ルースは自嘲を浮かべると胸中で答える。
『自分は王に厭われている。だから、自分の妻にならんとする女は皆、暗殺されてしまうのだ』と。






翌朝、日が昇りきらぬうちに隊商が出立してしまうと、ルースは露台からその行く先を見送った。
追う者もなく彼らの姿が街道の向こうに消えると、彼は穏やかな笑みを見せる。
護衛のつもりなのか傍に控える男が、ざっかけない口調で笑った。
「なかなかの美人だったのに勿体無い。留めなくていいんすか?」
「無用の揉め事を起こすつもりはないさ」
「オレ、結構好みだったんすけど。助けた時からちょっと目つけてたんですよ」
「何だ。先に言えばよかったのに」
目を丸くして振り返ったルースに、男は吹き出す。
実際、そう言っていればこの主人は自分が手をつけることなしに、部下の男に舞姫を与えていただろう。それが分かっていたからこそ口を出さなかった男は笑いながら軽く手を振る。
「いやー、オレは城内にも気になる娘いっぱいいますんで。けど殿下は城の女を抱かないでしょう?」
「夜伽などないならないで構わない。酒と同じようなものだ」
「それでいいならいいんすけど」
軽く肩を竦めて見せる男にルースは苦笑すると、その前を通り過ぎて中に入った。「リグ」と名を呼ぶと何処からともなく黒豹が現れる。
纏わりつく影のように、彼の足すれすれを回る豹を、ルースは手を伸ばして撫でた。

奴隷の女より生まれた王の子。
五人いる兄弟たちの中でもっとも卑しく、もっとも若く、けれどもっとも優れた才を見せた彼は、玉座を継いだ兄に厭われている。
だから少年の頃よりこの荒野の城一つ与えられ、王都から追い出されたのだ。
もっともろくに水も食料も供給されない城に閉じ込めたと思った腹違いの弟が、いつの間にか旅人たちの知識を得て井戸を掘り、城内で作物を作り、王都に頼らずとも暮らしていける環境を整えてしまったというのは、王にとって紛れもない誤算であろう。
自然と人を惹くルースの周りにはいつしか、行き場を失ってあぶれた人間たちが集まり、腕に覚えのある男たちが身を投じて、一つの異質な武力を為すに至った。
リサイ南西国境を守護するウィリディス城。
その主である男はしかし、彼を警戒する王都の疑心とは別に、何の野心も見せてはいない。