逃亡者 02

禁転載

月が明るい夜は怖い。
それは彼女がいつからか抱いていた原因の分からぬ恐怖であった。
白々とした光が夜の石畳に影を落とす様を、セレディアは恐れを拭えぬ目で見やる。すぐに背後から侍女が小声で囁いた。
「行きましょう、お嬢様」
「でも……」
『月が』
そう言いたいのをセレディアはぐっと堪える。
もう時間がない。たとえ今、誰に気付かれていなくとも、彼女の不在がすぐあの男に知れてしまうことは間違いないのだ。
隠し通路を抜けた先の小屋で息を潜めていた彼女は、意を決すると扉から外へと飛び出す。
青白い月が、街外れを走る二人の女を煌々と照らし出した。
人気のない深夜の街。石畳を蹴る足音と、浅い息だけが密やかに弾ける。
たいして大きな音でもないはずのそれらが、まるで声高に自分の居場所を教えているようで、セレディアは息を止めたくなった。
―――― もう少しだ。
もう少しで北の門にたどり着く。そこにはこの国を出る為の馬車が彼女を待ってくれているはずだ。セレディアは転びそうになる足を鼓舞して駆ける。
狭い路地から大通りへと差し掛かる角。石造りの門が視界の先に見えた。そこに立つ黒い人影は、彼女たちに気付いたらしく大きく手招きをする。
「お嬢様、お早く」
セレディアのよく知っている少年。
昔から彼女の家に出入りしている商人の息子は、彼女の手を取ると荷馬車の中に押し込んだ。続いて侍女を同様に乗せてしまう。
そうして彼は周囲を確認すると、御者台に座る父に手で合図した。月光の下、馬車がゆっくりと走り出す。
「まって」
荷台から伸ばされた手は少年に向けられたものだ。セレディアは彼もまた一緒に逃げ出すのだと、この時まで信じて疑っていなかった。
だが少年は淋しげに微笑むと一礼する。そのまま門の影に走り去った彼に、セレディアは愕然とした顔になった。侍女が彼女の金髪に黒い布を被せる。
「彼は門を閉めてくれるのです。でなければすぐ、追っ手に追いつかれてしまいますから」
「でも、そうしたらあの子は」
「大丈夫です。あいつもうまく逃げますんで」
返して来たのは御者台の男だ。
父親である彼の言葉に、セレディアはそれ以上何も言えず黙り込む。
あっという間に遠ざかっていく景色の向こうで、ゆっくりと下りつつある門の鉄格子。
月明かりはその門さえも平等に照らしていた。冷たい影が闇の中に溶け消え、街には再び静寂が戻ったかに思える。
しかしそれも、ほんの束の間のことでしかないのだろう。セレディアは溜息を飲み込むと顔を伏せた。月を避け、黒い布の下で息を潜める。
「お嬢様、ご心配なく。リサイにつけばきっと伯父上が助けて下さいます」
「ええ」
今はそれを信じて逃げきるしかない。
彼女はもう一度生まれ育った国の都を振り返ると、ただ黙って手の中に小さな指輪を固く握り締めたのである。






荒野に建つウィリディス城。
この城はそれ自体が一つの町と化しており、住人のほとんどは城内に己の部屋を持っている。
そのため城の外に建てられた住居は僅かで、残る土地の大半が育てられている作物の占める空間となっており、最後に城壁が城と緑とを緩やかに囲う形となっていた。
その城壁の外で部下たちと共に辺りを見回ってきたルースは、馬を下りると緑に染まった景色を眺める。
城壁の外へとはみ出て伸びている草。いつの間にか丘の下にまで広がった植物は、乾いた風をものともせず瑞々しい姿を曝していた。
彼は馬の手綱を部下に預けると、草原の只中で水を撒いている男に声をかける。
「すごいな。ここまでになるとは思わなかった」
「私の言ったこと信じてなかったんですかね、殿下。最初に井戸を掘った時、そうお約束したでしょうに」
荒れた手指を服の裾で拭った男は、皮肉な笑いと共に城の主人に返す。
日に焼け乾燥した皮膚。日中のほとんどを城の外で過ごす男の肌はがさがさと罅割れており、まだ四十代半ばの彼の顔を時に老人のように見せていた。
この城に来る前は、遠い東の国で学者をしていたとも噂される彼を、ルースは信頼の目で見やる。
「確かにな。今のこの城があるのもお前のおかげだ。感謝する、ネズ」
「別に構いませんな。好きでやってることですし、研究ですんで」
ネズはそこで言葉を切ると、小さな用水池からまた一杯、柄杓で水をすくった。それをけれど、草の上にではなく虫を追って草原に飛び込んだリグにかける。黒い豹は声こそ上げなかったものの突然の水滴に驚き、後ろに跳び退った。目を丸くしてネズを見返す。
「もうちょっと見通しが立ったら城壁外にも灌漑設備を広げたいですなあ。ちょっと手狭になってきましたんで。城壁が広がりませんかね」
「さすがに壁はな……。二重にすることは出来るだろうが、人手と金がいるな」
「余裕が出来たら先に鑿井に回して欲しいですな。何箇所か外にあてがありますから」
「ふむ」
水の確保はこの荒野で生きていく為の大前提の一つである。
それは皆が共通して認識していることだが、人手も資金も有限である以上、その使い道は慎重に考えて決定しなければならない。
ネズなどはとにかく大量の水を汲み上げ、灌漑設備を整え、荒地に緑を広げようとしているが、ウィリディス城が旅人に水を売っている以上、城外に新たな井戸を掘るならば整備維持体制だけではなくその場所の警備もまた必要になってくるだろう。
とにかく城にいる人間が生きていけることだけを目指して采配を揮っていた時期は、もう終わりつつある。
ルースはネズと別れて馬上に戻ると、城へ続く道を上りながら先のことについてざっと計算した。十年後を視野にいれて考え始めた時、同行していた部下の一人、ラノマが悪戯っぽい笑顔で話しかけてくる。
「殿下、人手と金が欲しいってんなら、いい手がありますよ」
「何だ?」
「王都に行きゃいいんです」
あからさまな唆しにルースは苦笑した。
ラノマは常日頃からそう言って彼をけしかける為、この手の発言には既に慣れっこになってしまっている。
要するに彼は、王都に戻り異母兄と対決して玉座を奪い取れと、そう言っているのだ。
二言目には「殿下はこんなところで終わるには勿体無いくらい王の器をお持ちですよ」と嘯いてやまない彼は、しかしルースが見るだに単なる騒動好きな人間である。ある日ふらっと現れた彼がいつの間にかこの城に居ついているのも、火種や戦闘に事欠かないからではないかと皆に言われているくらいだ。
「揉め事にはもっと金がかかるぞ。本末転倒だ」
「なに、王都にいってちょっと働いてやりゃいいんです。今、王は北部からの侵攻を押し返すのでいっぱいいっぱいじゃないらしいですか。
 不安になってる奴らも多いでしょうし、ちょっと力を見せてやりゃ殿下を援助したいって言い出す人間が何人も出てきますよ。
 で、そいつらから金搾り取ればいいんです」
「大分話が大きくなってるな」
何処までが本気で何処までが冗談のつもりか分からぬ男に、ルースは肩を竦める。青い瞳が少し乾いて、広がる緑を眺めやった。
埃っぽい風は、初めて彼がこの城に来た時から少しも変わらない。一瞬に十数年を思い起こして男は表情を消した。
「俺はこの城から出る気はない。徒に動けば王に睨まれるからな」
「そりゃ残念です」
本当に残念と思っているのかいないのか、道化めいた素振りでラノマは両手を広げてみせる。
その時、鞍の後ろに座っていたリグが、ルースの背にとんとんと頭をぶつけた。
「何だ?」
彼が振り返ってみると、背後の城門が開かれ、ちょうどそこからぼろぼろの荷馬車が入ってくるところである。
御者台に座っている男は彼の部下の一人であり、ルースに気付くと大きく手を上げた。
「殿下! 怪我人がいます!」
晴天の下響く大声に、二人の男は顔を見合わせる。
こうしてウィリディス城にはこの日また、予期せぬ客を迎え入れることとなったのだ。






気を失う寸前、セレディアの目に入ったのは矢を受けて崩れ落ちた御者の背だ。
リサイとの国境を越える手前で追っ手に追いつかれた馬車は、幌を切り裂かれ矢を射掛けられ、そしてセレディア自身も肩に傷を負った。
だが、そこで意識を手放してしまった彼女は、その後何がどうなって今に至るのか分からない。
見知らぬ小さな部屋で目を覚ましたセレディアは、治療の跡が残る右肩と誰もいない室内を見回す。
「ここは……?」
追っ手に捕まり、街に連れ戻されたのだろうか……。だとしたら御者の男は、そして侍女は無事でいるのだろうか。
薄い肌着だけで寝かされていたセレディアは、掛布を体に巻きつけると一つだけある窓のもとへと向かった。
硝子越しに外を覗き込み、そうして唖然とする。
眼下に広がっているのは乾いた荒野だ。草木の生えない不毛の地。遠くに伸びる街道を見出して、セレディアは我知らず息を飲む。
「あら、起きたのかい」
まるで娘にかけるような軽い女の声は背後の戸口から聞こえた。驚き振り返ったセレディアの視線の先で、やって来た中年の女は人のよさそうな笑顔を見せる。
「傷の調子はどうだい?」
「あ……す、少し、痛むくらいで」
「そうかい。後で布を替えてやるよ。その前に何か食べるかい? それとも先に殿下にご挨拶に行く?」
「殿下?」
思いも寄らない呼称が出てきたことでセレディナは目を丸くしてしまった。改めて気になっていたことを問う。
「ここは、どこなのでしょう。殿下とは一体……」
「ああ、あんたそれが分からないのかい。ここはね、リサイのウィリディス城だよ。殿下は先代王の末子、ルース殿下さ」
「リサイの……」
捕まってはいなかった。それどころかセレディアは目的の国に無事逃げ込むことが出来ていたのだ。
だが、彼女が目指していたのはリサイの王都で、他に何もない荒野ではない。
そのことに気付いた彼女はようやくこの城のことを思い出す。
―――― 王に放逐された奴隷腹生まれの王弟が、一人住んでいるという荒れた国境の城のことを。



「一人では住んでいないぞ」
礼を言う為にセレディアがルースのもとを訪れた時、彼女がつい聞いていたことを口にしてしまうと、噂の男は可笑しそうに笑った。
実際彼が座す執務室には、他にも二人の男がいて忙しなく何かの計算をしており、それだけでなくセレディアについてきてくれた先ほどの女も壁際でお茶を淹れている。この部屋に来るまでにも多くの人間とすれ違ったのだ。噂が単なる噂であることは間違いない。
恥ずかしさに俯いた彼女は、だが続く話を聞いて顔色を失くした。
「御者の男は部下が駆けつけて間もなく息を引き取った。もう一人一緒だった女は今怪我の手当て中だ」
「息を……引き取った……? ザウスが死んだ?」
「遺体は清めてある。家に返したいというのなら棺を作ろう。それが難しいならこの城に埋葬することも出来るが」
男の声音には同情の色が見て取れたが、遺体をどうしたいのか問う言葉は、今の彼女には無情なものにひどく感じられた。
言葉を失ってしまった彼女は、呆然と青い瞳の男を見つめる。
温かなお茶の香り。
女が淹れたそのお茶は当然のように城の主の前に置かれた。男の長い指がカップを口元に運ぶさまを、セレディアはただ目で追う。
彼はそれ以上何も言わない。自失した彼女がまるで見えていないかのように、書類に目を落とした。
だが、いつやむとも分からぬ無言の間は、彼女が気持ちを落ち着かせる為の時間であったのだろう。
しばらくの後、セレディアが深く息を吐ききってしまうとルースは顔を上げる。
「それで、貴女はどうしたい?」
男の声は、水面に波紋を生むかの如く、セレディアの心に響き渡った。
彼女は長い睫毛を伏せて男と視線を合わせる。小さな唇が震えた。
「ザウスの亡骸は、少しだけここに置いて頂けませんか?」
「分かった。だが少しだけとは?」
「私は……王都に行かなければならないのです。その後に、必ず、引き取りに参りますので……」
語尾がかき消えることをセレディアは恥じたが、それ以上は震えを抑えられなかった。
再び沈黙した女をルースは眉を上げて見やる。男の両眼に探る気配が宿った。
「貴女を襲った賊、もっとも部下の話では単なる賊ではないらしいとのことだが、奴らはまだ貴女を諦めていないようだ。
 街道にそれらしき斥候が現れたとの報告も入ってきている」
「それは……」
「もっともこの城の中に侵入を許すつもりはないが。すぐに出立するというのなら止めはしないが、傷が気になるのなら治して行けばいい」
男の苦笑には僅かにではあったが、明らかに彼女を気遣う感情が見て取れた。その厚意に安堵しかけたセレディアは、けれど自分を追う男を思い出して顔を曇らせる。
あの男は、この城にまで手を伸ばしてくるのだろうか。こないだろうか。
いくらセレディアを捕らえたくても、さすがに他国であるリサイと正面から争うことは彼もすまい。
だが、あの男が正面から挑んできたことなど一度もなかったのだ。いつのまにか彼女と彼女の家を取り囲むように根を伸ばしていたように。
―――― このまま傷が癒えるまで城に留まり続ければ、ここの住人たちに迷惑をかけてしまうかもしれない。
もともとこの城はリサイの王都を追われた男が住んでいる城なのだ。その間隙につけこめばいかようにも手を伸ばしようがある。
セレディアは青くなると小さな両手を握り締めた。肩の傷が疼くように痛む。
しかし一歩下がろうとした彼女が見たものは、穏やかな、けれど己の力に自信を持った男の目で――――
その強さに支えられるように彼女はその場に立ち尽くすと……長く躊躇った後、やがて自分の置かれている状況について、ぽつぽつと話し始めたのである。