逃亡者 03

禁転載

あの男の企みがいつから始まっていたのか、セレディアには分からない。
ただ気付いた時、男は既に宮廷にいて、そして皆の注目を集めつつあった。
少々強引な性格ながらも高い先見性を持ち、また地方の内乱も容易く治めるほどの指揮の腕を持っていた男は、異例な速度で王の目に留まりその信を得た。孤児であったとも噂される出自からすれば、それは大した出世であったろう。
だが男は勝ち得た地位に飽き足らず、自身にまた血の高貴さを付することを望んだのだ。
留まるところのない野心―――― その標的に上がったのはセレディアの家だ。
王家とも血の繋がりがある貴族の一族。だが、彼女の父は人のよい芸術家肌の人間で、政治や策略にまったくうとい人間であった。
そんな父がセレディアに、男からの婚約打診を打ち明けたのはだから、娘の意志を尊重したいという彼なりの親心であったろう。
幼い頃に母を亡くした娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていた彼は、娘には望む相手と結婚して貰いたいと思っていたようだ。
父の愛情の形は貴族にしては珍しいものであったが、セレディアはそれに甘えて婚約話を断った。

笑って娘の選択を受け入れたはずの父が、郊外の森で馬から落ちて死んだのは、その三日後のことだ。
突然のことに呆然とする彼女の前にはそうして―――― 「婚約者」の男が現れたのである。






「つまり、ランバルド国の貴族令嬢ってことっすか。
 王家とも縁が深い貴族のお姫さんで、でも家が乗っ取られそうになってる。
 だから母方の伯父がいるリサイの王都に行って助けを求めたい、と」
主人からセレディアの話を聞いたラノマは口笛を吹きたそうな顔でそう言った。
揉め事の話が面白くて仕方ないのだろう。天井を見上げて何やら考え事をしているようである。
しかし楽しそうな彼とは違い、残る二人の側近の反応は芳しくない。
そのうちの一人、剣士であるヴァーノンは難しそうな表情になり、庶務を受け持つイルドは不機嫌そうな顔になった。
今年三十三歳、城の財政管理から始まって事務の大半を取り仕切るイルドは、浮き立つ男へ水を差すかのように大げさな溜息をつく。
「徒に関わるべきではないでしょうな。ランバルドのお国騒動にでも巻きこまれたら最後、王に処罰の口実を与えかねません」
「でも王都にいるあのお嬢さんの伯父とやらは、リサイの大貴族なんだろ? 恩を売ってやればいいじゃないか。
 大貴族が相手となれば王もさすがに乱暴なことはできないだろ」
ラノマはこれを好機と疑っていないらしい。
王都に行って有力者の支持を勝ち取れと主人を煽動したのはつい昨日のことだが、早速その機会が巡ってきたと考えているのだろう。
好戦的な表情を浮かべる若い男に、しかしイルドは冷ややかな視線を注ぐ。
「無責任なことを言うな。乗っ取りをしかけている相手はランバルド王に重用されている将軍だというじゃないか。
 ランバルドとの戦闘にでも発展すれば、まず真っ先にこの城はリサイから切り捨てられるぞ」
「切り捨てられる? 今だって王都が何かしてくれてるか? 自分たちは南西の憂いがなくなって楽できてるってのにさ」
「二人ともいい加減にしろ」
過熱する同僚たちの間に割って入ったヴァーノンは、主人に向かって「失礼しました」と頭を下げた。
けれどルースは微笑しただけで済ますと、執務机を挟んで彼らに手を振る。
「構わん。厄介な問題であることは間違いないからな。多くの意見が聞けた方がいい。
 ―――― お前はどう思う? ヴァーノン」
意見を問われた男は一呼吸置いた。イルドより一歳年下、三十二歳の彼は執務机を前に主人を真っ直ぐに見返す。
この城ではルースの次に皆の信頼を集めていると評判の男は、少し考えると落ち着いた声を紡いだ。
「まずはその方の意思が一番であるかと。この城の客人となった以上、ランバルドに突き出すような真似は出来ぬでしょう。
 その上で王都に行きたいと仰るなら、この街道を行く間は護衛をする……そんなところではないかと思います」
「そうだな」
ヴァーノンの意見は妥当なものである。
セレディアの問題に深く介入して王都にまで踏み込めば王の警戒を煽るであろうし、かといって彼女をランバルドに返すようなことは出来ない。
ウィリディス城にはよそで行き場を失い彷徨の末、ここにたどり着いた人間も多く属しているのだ。
彼らにとって城に迷い込んできた人間を危地に追い返すということは、城の意義を歪ませることと同義である。
ルースは欠伸を噛み殺すと頭の後ろで腕を組んだ。両脚を重ねて執務机に乗せる。
「こちらとしては積極的に外でことを起こす気はない。が、向こうは違うらしいというのが困りものだな」
主人のぼやきに三人はそれぞれ厳しい表情になった。
セレディアを助けてから約一日、城の周囲には武装した所属不明の騎馬兵がちらちら現れていると、報告が入っているのだ。
今のところ城壁を越えて何かをしてくるということはないようだが、それもいつまで続くか分からない。
向こうが先に攻撃をしかけてきた場合どう対処するか、その後のことまで考えておく必要があった。
ルースは目を閉じて考えを巡らす。
その時、机にかけた足にリグが飛び乗ってきた。さすがに豹一匹の重みに耐えられず彼は笑いながら足を下ろす。
「分かった分かった。行儀が悪いというんだろう」
再び床につけられた足に豹は頭をこすり付けた。ぴんと立った尻尾を掴もうと手を伸ばしながら、ルースはとりあえずの決断を下す。
「城の者には当分城壁の外に出ないよう伝えておけ。ああ、城の外にも一人では出ぬように。
 あとはいつでも迎撃に出られるよう体制を整えて、こちらからは彼女の怪我が治るのを待つ、といったところか」
「かしこまりました」
それぞれの仕事に戻っていく部下たち。彼らを見送ったルースは席を立つと窓辺に向かった。
緑に覆われつつある丘、乾いた荒野。彼が人生の半分以上を過ごしたその景色は、形容しがたい感慨をもたらしてくる。
けれどこの時荒野の城の周囲には、他国からの追っ手がまるでその隙を探るように絶えず徘徊を繰り返していたのだ。






婚約者だと言って現れた男に、セレディアははじめ困惑し、次に拒否を示した。
だがその拒否を誰もが笑って取り合わなかった。父を喪ったばかりの娘が錯乱しているだけと思われたのだ。
男のもとには確かに父の名で婚約の取り決め文書が残っており、しかしそれを見せられた彼女はその時確信した。
―――― この男が父を謀殺し、婚約を捏造したのだ、と。
けれどそのことを訴えても誰もが彼女を嘲笑うことは目に見えている。
セレディアは父と親しかった貴族の何人かへ密かに窮状を訴えようとし……だが先回りをしていた男が、彼女の精神の不調を彼らに相談していると知って愕然とした。
このままでは男の妻となり家を乗っ取られることは時間の問題である。
そして一度そうなってしまえば彼女は妄言などを理由に幽閉、悪ければ謀殺されかねないだろう。
国にいて真実を叫び続けても何もならない。
そう悟った彼女は信頼の置ける人間たちの助けを借りて、自らを絡め取ろうとする手から逃れることを選んだ。
そうして逃走の果てにセレディアは、一つの城へたどり着いたのである。