逃亡者 04

禁転載

左腕に深い矢傷を負った侍女は、手当ては施されたもののまだ熱が下がっていない。
彼女の病室を訪れたセレディアは、手際よく包帯を取替え、侍女の汗を拭いていく女の手際を、扉の前で所在なく見つめていた。
眠っている侍女は魘されているのであろうか、時々小さな呻き声を上げる。
その声を聞く度にセレディアの脳裏には倒れているザウスや、国で別れた彼の息子の姿が浮かんできて、唇を噛み締めずにはいられなかった。
「そんな顔しなさんな。この娘は大丈夫だよ」
振り返った中年の女は快活に笑う。しかしセレディアは女の明るさに同調出来ず、ただほろ苦い笑みを口元に浮かべた。
セレディアの手当てもしてくれた女―――― ランと名乗った彼女は、新たな包帯を作りながら穏やかに続ける。
「追っ手のことも今は考えないようにするんだね。まずは傷を治すことが先決だ。
 殿下は困ってる人間をお見捨てになるような方じゃあない。この城にいる限り安心してていいさ」
「殿下、が……」
噂とはまったく異なる荒野の城。その主人である男を思い出し、セレディアは困惑した。
かの王子は兄が即位すると同時に十三歳でこの城に追放されたと聞くが、それは間違いであったのだろうか。
彼女が見るだにこの城は環境に恵まれているとは言いがたいが、充分に人々が余裕をもって暮らしていけるだけの設備が整えられているように思える。そこを行く人間たちも皆生き生きとした顔をしており、とても荒れた城の住人には感じられなかった。
セレディアの考えていることが伝わったのか、ランは手元を見たまま鼻を鳴らして笑う。
「皆が知っているような噂はだいたい本当さ。殿下は十三の時にこの城に追いやられた。
 手元に残すことを許されたのはほんの少しの金品と、たった五人の召使たちだけだったよ。ああ、リグもそうだね。あの黒豹。
 でも殿下はそこで諦めることをなさらなかった。手を尽くして人の手を集め、次第にこの城をお変えになったんだ」
「城を、変えた?」
「ああ。最初の数年は本当に大変だったさ。毎日のように城の内外を駆けずり回って……普通の子供ならとっくにのたれ死んでたよ。
 でも、運もよかったんだろうね。そうこうしているうちに水もちゃんと汲みだせるようになって、殿下の周りには人が集まってきた」
セレディアの見た彼は、王族らしい自信と優雅さに恵まれているように見えた。その姿からするととても苦労に溢れた少年時代など想像がつかない。
だが彼は、彼女からすると信じられないほどの苦境を乗り越えてきたのだろう。
セレディアは廊下の窓から見た緑と灌漑設備を思い出した。ぼんやりとする彼女の視線の先で、ランは深い皺が刻まれた顔を上げる。
「そりゃ殿下もここに至るまで、色んなものを失くされたさ。でも、だからその分、あの方はお優しいよ」
ランの言葉には、過ぎ去った年月と同じだけの重さが隠されているようにも聞こえた。
その重さに我が身を顧みたセレディアは、改めて自分の置かれている状況を思うと、薄青の瞳を閉ざしたのである。






―――― これからどうすればいいのだろう。
その疑問は、ウィリディス城で目を覚ました時よりセレディアが幾度となく胸中で繰り返したものだ。
自身の身の安全だけを求めるのなら、リサイの王都にいって伯父の下で暮らせばいい。
数回しか顔を合わせたことのない彼だが、書簡のやり取りは頻繁にしており、その中で彼はいつもセレディアのことを気遣ってくれていた。
だから多くを望まなければ、彼女は住む国を変えひっそりと残る一生を暮らすことも出来るだろう。
けれどもし、ランバルドに戻って父の家を取り戻したいと願うのなら。
その時彼女はきっと、もっと多くの苦労と犠牲を覚悟せねばならない。数ヶ月前は確かに手の中にあった温かい思い出と誇りを取り戻す為に。
天秤の両皿に載せるものが果たして吊り合い得るのか。
セレディアは結論の出ない問いに夜の寝台から起き上がった。
体の為には寝た方がいいとは思うのだが、どうしても上手く寝付けないのだ。彼女は気分を変える為、上着を羽織ると廊下に出る。
夜の城はそのほとんどが闇の静謐に包まれていたが、窓から差し込む月光は白々とその闇を切り取ってやまなかった。
セレディアは月の当たる床を避けて、長い廊下をあてどなく進んでいく。
見回りの人間に見つかったらどう言い訳しようか―― そんなことをちらりと考えた時、だが彼女は不意に身を竦めた。
おそるおそる見やった廊下の先、暗闇がまるで意思を持っているかのように揺れている。
「ひ……っ」
口を覆って悲鳴を押さえたセレディアは、闇の中に金色の瞳が二つ現れたのを見て気を失いそうになった。
だがその時、廊下に男の低い声が響く。
「リグ」
その声によってか、金の瞳は再び見えなくなった。代わりに月光の下、美しい獣が姿を見せる。
しなやかな黒い豹は悠々と廊下を横切ると外の露台へと出て行った。
そこに主人がいるのだろう。セレディアは薄らいだ恐怖の代わりに好奇心を抱く。
住んでいた都を追われた男。彼はこの城に放逐された時、王都に戻ることを望んだのだろうか、望まなかったのだろうか。
彼女はそっと足を忍ばすと暗がりを辿って廊下を進んだ。息を殺して露台を覗き見る。
城の主人である男は月が煌々と照らし出す欄干に座り、眼下の荒野を眺めているようだった。
均整の取れた長身。姿勢のよい男と足下に寝そべる豹は一枚の絵に似て、セレディアの視線を強く惹き付けた。
そのまま無言で露台の一人と一匹に見惚れていた彼女は、しかしリグが顔を上げ自分に気付いたことで慌ててしまった。
じっと見つめてくる金色の瞳に、手振りで黙っていてくれるよう懇願する。
だが彼女の努力も虚しく、リグが何かするより先にルースは気配を察したのか振り返った。
男の驚いたような目に見つめられ、セレディアは気恥ずかしさに俯く。
「まだ起きていたのか」
「申し訳ありません。寝付けませんで……」
「無理もないだろう。昼間ずっと伏せていたのだし」
ルースは「そんな暗がりにいないで来ればいい」と彼女を手招いた。まさか「月明かりが怖い」とも言えず、セレディアはおずおずと露台に進み出る。
しかしその恐怖も露台から荒野を見下ろした途端掻き消えた。
あますことなく蒼に染まった草木のない土地。神秘さえ覚える光景に、彼女は言葉を失う。
「ここは不毛の地と言われているが。これはこれで美しいだろう」
男の声音には、自分の住む地への愛着が感じられた。返す言葉も分からぬセレディアはただ頷く。
こうして辺りを眺めることが常になっているのか、ルースはかなり高い位置にある露台にもかかわらず、欄干の上に片膝を立てて座っていた。
落ちてしまったらどうするのか、はらはらと心配する彼女をよそに男は城門の方を眺める。
「王都までは、馬で約十五日かかる」
唐突な言葉にセレディアは驚いた。だが、それはこれからの為に必要な情報であろう。彼女は気を引き締めると頷いた。
「そのうち十日はこの荒野を延びる街道の分だ。だからそこまでは部下に護衛をさせよう」
「殿下」
「そこから先は迎えに来てもらった方がいいだろうな。伯父に書簡を送っておけばいい」
それは、突然迷い込んできた女に対するにしては充分すぎる厚遇である。
下手をしたら揉め事を避ける為にランバルドへ突き返されてもおかしくなかったのだ。セレディアは、恐縮し頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言われるようなことではないな」
苦笑したルースはもしかしたら、そこまでしか彼女に手を貸せない自分を苦々しく思っているのかもしれない。
だが状況と彼の立場を考えれば、それは仕方のないことであろう。セレディアは国境の方角を見やる。
リサイの南西国境。そこは、隣りあう二つの国に面している。
一つは西側に広がる森と山の国、ノイディア。そしてもう一つが南に位置するランバルドだ。
決してリサイと深い友好を築いているわけではない二つの国は、しかし荒野に手を出しても益がないとして、この国境へ本格的に押し寄せることは三十年来していないが、それでも自国の将軍とリサイの王弟が直接争うような事態になってしまえば、黙ってはいないだろう。
セレディアは自分がその鍵を握っているかもしれないことに、改めて薄ら寒さを覚える。
「あの男は……私が自分の嘘を知っていますので、今も執拗に追いかけてきているのだと思います。
 ですが貴族の娘などいくらでもおりますから、私が王都に入って大人しくしていれば……諦めてくれるかもしれません」
それはけれど、父の家を諦め、自分の血筋を諦め、親の仇を忘れるということと同義だ。相手を恐れて自分の平穏だけを買うという手段。
―――― 果たしてそれでいいのだろうか。セレディアは唇を噛む。
月光に照らされた男は、秀麗な顔から表情を消し彼女を見つめていた。かつて彼も通ったかもしれぬ道に、彼女の心は揺らぐ。
「殿下であれば、どうなさいますか」
「というと?」
「奪われたものを忘れ、穏やかに暮らす方がよいのでしょうか。それともこの恨みを忘れず、戦った方がよいのですか」
ぽつりと洩らした問い。
そう言ってしまってから初めて、彼女は衝撃に立ち尽くした。

『恨み』
自分は、あの男を許せない。
今まで追い立てられるだけの恐怖と焦りに見えなくなっていたもの、けれどないはずがないその感情に、セレディアはようやく気づいた。
信じられないほど突然の父の死。そして偽りの婚約。
皆が話を聞いてくれない。そんな中に放り出された彼女は、束の間の安息を得たことでついに、自分が怨嗟の念を抱いていることを知ったのだ。

一度自覚した負は容易く胸を焼く。
大きすぎる理不尽への憎悪が、彼女の中であっという間に膨れ上がった。
そうして顔を歪め痛みを堪えるセレディアに、しかしそれまで黙っていた男は静かに息をつく。
「それは俺が出せる答ではないな。己の話として考えても―――― 答は、俺が今この城にいることで分かるかと思う」
冷静な返答に、彼女は少しだけ我に返った。埒もないことを口にしたと一瞬前の己を恥じる。
「失礼、しました」
「構わない。ただセレディア。油断はするな」
ルースの声は、それまでの中でもっとも強く、そして暗いものだった。
氷片を散りばめたような重い声。思わず自分の怒りさえ忘れかけたセレディアに、彼は冷えた目で釘を刺す。
「都合が悪い人間が存在しているとなれば、その人間がどれ程遠く離れた場所で生きていても、手を伸ばす人間はいる。
 貴女が怒りを忘れるとしても、相手もそう思うとは限らないだろう。セレディア、暗殺の手に気をつけろ」
「殿下……」
驚き目を瞠ったままの彼女に気付くと、ルースは鋭い雰囲気を崩した。微苦笑して欄干から立ち上がる。
「さて、俺はもう寝る。貴女もいい加減休んだ方がいいな。ああ、迷子になったというならリグに案内させるが」
「いえ……一人で戻れます。失礼致しました」
起き上がりかけた豹を制してセレディアは一礼した。露台から下がると、光と闇に塗り分けられた廊下を戻っていく。
平穏か、復讐か。胸に淀む蟠りはまだ収まらないままだ。
そうして暗い部屋に戻った彼女はけれど、一人の寝台において今は亡き父の姿を思い出すと、その晩は声を殺して泣いたのである。