逃亡者 05

禁転載

夜が明ける前に寝室にもたらされた知らせは、ルースの目を覚まさせるに充分なものだった。
彼は上着を羽織ながら執務室に向かうと、そこで部下たちから詳しい話を聞く。
―――― 何者かが城壁外の草原に火を放ったという報告。
それはこの城自体に向けられた脅しに等しいものであろう。
幸い見張りがすぐに気付いて消し止めたものの、空気が乾いていたということもあり、城門前の緑はほぼ消失してしまったらしい。
消火に使った水のことと合わせて、さぞネズが青筋を立てているだろうとルースは嫌な顔になったが、それ以上に腹立たしい報告を聞いて彼は怒りを顕にした。
城門の中へ投げ込まれていたという手紙。
そこにはセレディアの名こそなかったものの彼女宛でこう書かれていたのだ。
『子供の命が惜しければ、外へ出て来い』と。

「あの子が……」
手紙を見せられたセレディアは、そう言ったっきり絶句してしまった。白い肌がみるみる蒼ざめていく。
「心当たりがあるのか?」
「おそらく、ザウスの……亡くなった御者の、息子です」
「ああ」
それは彼女にとっては業腹なことであろう。父に続いてその子まで命を奪われようとしているのだ。
ルースは、震える細い指が手紙を握りつぶしてしまうのを見やると、執務室に集まった部下たちを見回した。
「さて、向こうはなかなか派手なことをしてくれたようだが」
「戦争っすね。どこの城に喧嘩売ってるのか、ちょっと思い知らせてやりましょう」
「先方が名乗っていないということは、個人で隠密裏に動いているということでしょう。であれば、少しの反撃は必要かと思います」
昨日意見を戦わせていたラノマとイルドは、今日は揃って戦意を見せている。
それはひとえに財政的な被害が出てしまったということが大きいだろう。
他の者たちも多くが反撃を支持する中、しかしヴァーノンだけは慎重な声を上げる。
「ですが、火を放った者たちを罰することが出来ても、それで相手が諦めるとは思えません。
 元凶の男を掣肘するか、セレディア嬢を王都に送り届けるか、どちらかを為さねばいたちごっこになるのではないでしょうか」
「確かにな」
まさか他国で重用されている将軍本人がここに来ているとも思えない。おそらく城の周囲で様子を窺っているのは彼の配下だろう。
ならばその配下を退けても、相手が更なる人員を送り込んで来たならきりがないのだ。ルースは考えを巡らせながらセレディアを見る。
恵まれた人生を送ってきた彼女は、もしかしたら怒ることに慣れていないのかもしれない。心中を渦巻く怒りを上手く表せないかのように歯を食いしばり肩を震わせていた。男はその横顔に問いかける。
「子供を見捨てるつもりは?」
「ありません!」
「分かった」
ルースはそれだけ言って立ち上がる。部下たちを順に見回し、最後にセレディアの上で視線を止めた。
「昨日貴女は聞いたな。恨みを忘れて平穏に暮らすべきか、それとも戦うべきかと」
「……ええ」
「その答は簡単には出ない。俺も、三年悩んだ」
セレディアは虚を突かれたように沈黙する。部下たちの中で何人かが表情を変え、何人かが怪訝な顔になった。リグが顔を上げ主人を見つめる。
「だから貴女にも悩む時間をやろう。仇のことを忘れるのか、復讐するのか」
「時間を?」
「簡単なことだ、セレディア。だが難しくもあるだろう。―――― 貴女は戦場に立つ覚悟はあるか?」
緊張に息を飲んだのが自分であるのか、彼女には分からなかった。
ただセレディアは見開いた目でルースを注視すると、躊躇うことなしにその問いに頷いたのである。






街道から城へと続く分かれ道。
その道を城壁上の見張り塔から遠眼鏡で見張っていた男は、顔を上げるとにやりと笑った。隣にいる同僚に己が見たものを伝える。
「騎兵が五十騎ってところだな。国が分かるようなものは身に着けてない。
 向こうも国同士の問題にはしたくないみたいだな。暗黙の了解ってやつだろう」
「人の家の庭に火を放っといてよく言う。皆殺しにしてやろうか」
「それじゃあ意味がない。いいから射手呼んで来いよ。もう時間がない」
「分かった」
慌しくなる周囲を見回し、男は肩を竦める。
そして彼はまた遠眼鏡を構えると近づいてくる騎兵たちに焦点をあわせ……その中に縛り上げられた少年を見つけると、不快げに唾を吐き捨てたのだ。



命じられた任務は、一人の娘を生きたまま連れ帰ることだ。
その為に人質まで用意した部隊長は、しかし向こうから約束通りの時間に城門を開いてきたのを確認して、思わず笑みを浮かべた。距離を測りながら進んできた部隊を留める。
城門の中から歩み出てきたセレディアには、彼ら部隊と同数ほどの騎兵が付き従っている。
おそらく人質を引き渡すという約束が本当に守られるのか、威嚇の意味もあるのだろう。
彼らを前に男は部下の一人を振り返ると、顎で人質を前に立たせるよう指示した。
満身創痍のうえ縄で縛られた少年は、引き立てられると虚ろな目でセレディアを見つめる。小さく口を開閉させたが、声が出ないらしくそのまま項垂れた。
娘はその様子を見て、怒りに震えたようだった。一歩前に出てくる。
「その子を放しなさい!」
「ならまずあなたがこちらへ来なさい、お嬢様」
「駄目よ! 先にその子の縄を解いて!」
セレディアの隣に騎乗した男が立つ。
それが誰だか察しがついた部隊長は口の中で小さく舌打ちした。
リサイ国の王弟でありウィリディス城の主―――― 街道を守護する兵たちを束ねる、一筋縄ではいかない男だ。
剣を抜いたルースは冷ややかな目で招かれざる来訪者たちを見据えている。
その眼光に怖気づきそうになった部隊長は、自らの怯えに気付くとルースから視線を逸らした。
「面倒は避けるか……」
元々城の外に火を放ったのは脅しの為であるが、正面からこの城を相手取るとなれば到底五十騎では足りない。最低でも数千は必要だろう。
彼は部下に目配せすると少年の縄を切らせた。セレディアを前に、少年の背を叩く。
「では、こいつをそちらへ歩かせる。あなたも同時にこちらへ。いいな?」
「分かったわ」
前に押し出そうとする手に少年は初め抗ったが、大きく突き飛ばされるとそのまま道の上に転がった。セレディアの悲鳴が上がる。
「やめて!」
「そう思うなら早く来るんだ」
彼女は一度だけルースの方を振り返ると、倒れ伏した少年に駆け寄った。膝をつき、助け起こそうとするセレディアの背に、だが彼女を連行しようと二人の兵士が歩み寄る。

ルースは動かない。
動いたのは別の人間だ。セレディアの腕を掴み上げようとしていた二人の男が、次々短い声を上げてのけぞる。
「何だ!?」
「―――― 矢だ!」
城壁から射掛けられた二本の矢。それは二人の男の腕と肩をそれぞれ掠っていた。
どういうつもりなのか。部隊長は剣を抜きながらルースを睨む。
しかしそれとは別に、矢傷を負った彼らは苦痛の声を押し殺すと、苛立ちを込めてセレディアに手を伸ばした。目標である娘を手中に収めようとする。
だが、その手は彼女に触れることはなかったのだ。
掠り傷を負っただけの男たちは、見る間に顔を土気色に変えるとその場に四つ這いになった。激しく吐血すると、声もなく乾いた地面に倒れ伏す。
それが何を意味するのか、悟った誰かがいち早く叫びを上げた。
「毒矢か!? 卑怯な!」
「どちらが卑怯なんだ」
嘲笑う声はルースのものだ。
部隊長は事態の不味さに歯軋りすると馬の腹を蹴る。
はじめから、ルースはセレディアを渡すつもりなどなかったのだろう。
毒矢まで射掛けてきたのだ。人質を犠牲にしてでも彼らに制裁を加えるつもりに違いない。
だが彼らも、セレディアさえ手に入れば、それでいいのだ。
男は抜いた剣を振り上げると、真っ直ぐセレディアに向かった。彼女を庇おうとする少年に斬りかかる。
しかしまさに剣を振り下ろそうとしたその時、横合いから黒い何かが飛び掛ってきた。強い衝撃を受けて男は馬から転げ落ちる。地面に叩きつけられ、手から剣が離れた。
「くそ……」
男を落馬させたリグは、その上を舞うように飛び越えると低い威嚇の声を上げた。男は全身の苦痛を堪えながら剣を拾い上げようと手を伸ばす。
その前に、セレディアが立った。
「よくもザウスを……!」
憎しみに満ちた呟き。女の手が隠し持っていた短剣を抜く。黒く変色した刃を見て、男は顔色を変えた。
―――― 毒刃だ。
その効果は、先ほどの部下を見ていたなら明らかである。
男は突き出された短剣を避けて咄嗟に女の手首を握った。そのまま二人は激しく揉みあう。
まるで滑稽な踊り、力の差がありすぎる争いは、しかし他者の介入を待つまでもなく、女の小さな悲鳴をもって終わった。
持っていた短剣で腕を切ってしまったセレディアは、大きく体を痙攣させる。
土気色になっていく顔。彼女はそのまま土の上に蹲ると、激しく咳き込んだ。鮮やかな血が土の上へ吐き出される。
「セレディア様!」
抱き起こそうとする少年の腕の中、女は凍えるように体を震わせた。失態に立ち尽くす男へ腕を上げる。
変色した指が彼を指し―――― だがすぐに力を失って落ちた。
「セレディア様! しっかりなさってください!」
揺さぶられる彼女は、けれどもう目を開けない。
任務の失敗を目の当たりにして男は身を翻した。自らの馬に飛び乗ると、退却を命じる。
その時には既に男の率いてきた部隊には激しい矢の雨が降り注いでいた。次々と馬から落ちて動かなくなる部下を避け、男は声を張り上げる。
「退け! 娘は死んだ! 退け!」
目標は失ってしまったが、この上リサイの軍と本格的な戦闘に入るようなことになっては目もあてられない。
セレディアが死んでしまったことは痛手だが、裏を返せば上官の悪行を知る人間が消えたということでもある。
貴族の娘などまだ他にいくらでもいるのだ。男はそう内心で言い訳すると全力で馬を駆った。街道を国境へと逃げていく。

残されたものは、二十ほどの死体と少年のすすり泣きだ。
女の体を抱いて慟哭する彼に、ルースは歩み寄ると膝をつく。そうして少年の腕の中から女を抱き上げると、彼は稚気に富む声をかけた。
「もういいぞ、セレディア」
「え……?」
驚く少年の見上げる前で、女はゆっくりと目を開ける。
そのまま彼女は土気色に変じた己の手を見ると―――― 「この薬草、本当に凄いのですね」と驚きの声を上げたのだった。






草原に火を放たれて一番怒り心頭になったのは、当然ながらネズである。
彼は主人から今回の話を聞くと、二種類の草を煎じて渡してきた。
そのうちの一つは毒薬。即効性のもので、傷口から入ってすぐ人を死に至らしめる。
そしてもう一つは―――― 人の肌色を一時的に変色させるだけの、いたって無害な薬草だったのである。



「まったく、もっと派手に暴れたかったっすよ」
「そう言うな。あとあとが面倒だ」
全てが終わり十日後、ルースはラノマを伴って城門の外に立っていた。
彼らの前には幌を張った荷馬車が止まっており、その中に棺が運び込まれていく。
それだけではなく十日分の食料を始め、旅のこまごまとしたものが城の人間の手によって積み込まれると、セレディアはルースの前に戻ってきて頭を下げた。「本当にお世話になりました」と謝辞を述べる。
「何か足りないものはないか? 迎えは来るというから大丈夫かもしれんが」
「充分すぎるくらいでございます。何から何までありがとうございました」
そう言って笑った彼女は、けれど少しだけほろ苦い微笑を浮かべているようにも見えた。
祖国においては死んだことになった女。そうして密やかに伯父のもとへと向かう彼女は、これから与えられた猶予を煩悶に費やすのだろう。
―――― 忘却か復讐か。
その答がいつ出るのかは分からない。ルースは彼女が嵌めている小さな指輪に目を落とす。
「なくさないようにな」
「ええ。これだけがもう、私の身を証明するものですから」
もし彼女が将来、国に戻り身の証を立てるつもりなら、その時はこの指輪が力を持つことになるだろう。
彼女の家に代々伝わる当主の印。彼女を手に入れようとした男が、ついには得られなかったものだ。
まるで父の形見のように指輪を大事に握るセレディアを、ルースは穏やかな目で見下ろす。
「護衛には腕の立つ者たちを選んだ。安心して任せておけばいい」
「ありがとうございます、殿下」
彼女はもう一度頭を下げると男の前を離れた。侍女を伴って馬車の荷台に上がる。御者台には少年が座った。
その馬車を守る騎兵が十騎、それぞれ馬首をめぐらす。御者の少年はルースに向かってお辞儀をすると手綱を引いた。
ゆっくりと動き出す馬車。街道を遠ざかっていく影をラノマは退屈そうに見送る。彼は大きく伸びをすると、主人に向かっていつもの軽口を叩いた。
「まったく。殿下も一緒に行きゃよかったんすよ。そうすりゃもっと面白くなったのに」
「俺は王と揉める気はないさ」
踵を返した男の足下をリグが影のように追っていく。その背に向かってラノマは呟いた。
「でもあんたは、王に頭を垂れない人間だ」






小さくなっていく城。その姿を馬車の荷台から見つめていたセレディアはそっと溜息をついた。
隣に座す侍女がそれを聞いて心配そうな目を向ける。
「セレディア様、何処かお具合でも……」
「ああ、何でもないの。ただ少し思い出しただけ」
「思い出された?」
―――― それは、月夜に見たあの景色だ。
怖くて仕方なかった月明かり。その下では全てが鮮やかに染め分けられてしまう。
けれどあの時だけ、彼らの前だけでは、それがひどく綺麗に見えたのだ。
セレディアは力強い男の姿と彼に寄りそう影を思い出し、また一つ息をつく。
かつて彼も通った道。そこをこれから歩んでいく己がどのような未来を迎えるのか、決めるのは自分自身である。
だがどのような道を選ぼうともそこに悔いは持たない。
セレディアはそれだけを強く心に刻むと、去って行く城に背を向け、街道の向こうを見据えたのだ。