白姫の腕 07

禁転載

「殺してしまえばいいのに」
明るく広い部屋。調度品も全て豪奢なものである男の部屋に似つかわしく、その声は明るいものであった。
部屋の主である男は驚愕に目を見開き、血を分けた弟を見やる。彼は兄の視線に構わず堂々と皮の剥かれた果物を手に取った。
「だって、そうでしょう? 生かしておいても何もならない。単なる災いの種ではありませんか」
「だがあれがいなくなったら南西国境はどうなる」
「どうにもなりませんよ。昔はあの城無人だったじゃないですか。その当時に戻るだけです。
 それよりあれを放置しておいて力を貯められることの方が厄介ですよ。殺してしまうのが一番です」
今、話題の渦中にいる男は、彼ら二人にとって腹違いの弟にあたる。
だが少なくとも、汁気の多い果物にかぶりついている男は、肉親の情というものを持ち合わせているようには微塵も見えなかった。
王である兄は、弟の情のなさが自分に対してもそうなのではないかという考えに駆られ、薄ら寒さを覚える。
「あの時回りくどい脅しなんかしないで、あれ本人も殺しておけばよかったのですよ。
 娘一人殺して、ただ恨みを買っただけじゃないですか?」
「……あいつがあの城で子を作らず一生を終えるなら、それでいいと思ったのだ」
彼が震える声を絞り出すと、相手は一瞬蔑むような目を見せる。
だが兄がそれを見咎めるより先に、男は半分だけ齧った実を皿に投げ捨てた。汚れた手を水皿に浸す。
「ともかく、早いところ手を打った方がいいですよ。ここのところ北部の戦況のせいか、陛下の評判は芳しくない。
 ただでさえロドやヴォルグはあれに同情的だ。揉め事の芽は早いうちに摘んだほうがいいでしょう」
残る二人の弟の名を出されて、王はこれ以上ないほどに顔を顰めた。焦りと屈辱が色濃く浮かびあがる。
青黒くなっていく兄の顔色。それを見ながら彼は投げ捨てた果物の芯を見やった。
不恰好に齧られた果実はその時既に、歯型にそって茶色く変色し始めていたのである。






ウィリディス城において、水は貴重なものとされている。
であるからして無駄遣いはよろしくない、と思われているのだが、その日子供たちは珍しく貯水池にむらがり、柄杓を手に遊んでいた。水を汲み出してはそれを背後にいる豹に向かってかける。
だがリグも黙ってかけられるような真似はしない。五人の子供たちを相手にひょいひょいと跳びまわり水滴を避け続けている。
それは結果として、豹の後を追って辺り一帯に万遍なく水が撒かれるという成果をもたらしていた。
遊びと実益を兼ねた彼らの行為を、城壁に寄りかかるルースとネズは無言で眺めている。
やがて一通り草の上に水が撒かれると、ネズは「次はあっちだ」と水桶を手に子供たちに指示した。リグがその先へぴょんぴょんと跳ねて行く。
「随分と元気なものだな」
「子供とはそういうものでしょう」
動物を飼いたいと申し出て許可された彼らには、来週には子牛が買い与えられることになっている。
それを待ち、期待が膨らみすぎている子供たちの相手を今回リグが買って出たのだが、さきほどから黒い豹は水にも手にもその体を触らせていなかった。彼らとの間に一定の距離を保ちながら跳ね回っている。
「子守も出来るのか、あいつは」
「頭がいいんでしょうな。人語をよく解している」
「昔からそうだった」
少年の頃から共にいたリグは彼にとって自身の半分のようなものである。
それはあるいはリグが言葉を発しない分、より強くそう思えるのかもしれない。主人の内心を見抜いているのか、黒い滑らかな体が寄り添ってくる度、彼はもてあましぎみな己の感情をリグと分け合ってきた。
黒い影が、そして周囲の人間たちがいたからこそ乗り越えてこられた十数年を思い出し、ルースはしばし物思いに耽る。
豹の寿命は、人のそれよりずっと短い。
だがそれを知っていても、ルースはリグがいつか自分の傍からいなくなることが想像出来なかった。
ゆっくりと流れていく時間。
はしゃぎ回る子供たちを見ていた彼は、城壁から体を起こすと肌を刺す日差しに目を細める。
「そろそろ限界か」
先ほどからリグの動きにもきれがなくなってきている。子供たちから距離を取り、草の上に腹ばいになっていることも多い。
いい加減連れ出してやらなければ気の毒だろう。ルースは手をあげて豹を呼んだ。
「リグ! 戻るぞ!」
主人の声を天の助けと思ったか、豹は尻尾を立てて跳んで来る。
名残惜しげに手を振る子供たちに向かって笑いかけると、ルースは城門へと戻っていった。
何ら代わり映えのしない日常。ウィリディス城は今日もつつがなく平和であった。



一時間以上にわたって日の下を跳びまわっていたリグは、さすがに疲労の限界にあったらしい。城内に戻るなり風の通る廊下の影に寝そべった。
そのまま動きたくなさそうな豹をルースは笑って撫でると、一人だけ大広間へと向かう。
そこにはちょうど王都から街道をやって来た商隊が、挨拶伺いを希望し通されてきたところだった。
これからランバルドへ向かうという一行は、一夜の宿とちょっとした売り買いをルースに求め、それを許可される。
たちまち広間には色取り取りの布や乾燥した果実が並べられ、覗きに来た女たちが歓声を上げて群がった。
そうこうしているうちに、騒ぎから少し離れたところで宴席の支度が始められる。
商隊には数人だが芸人もおり、彼らが自らの芸を披露するというのだ。
日が落ちていく空。紫色に染まる夕暮れを前にして、けれど荒野の城は賑わいを強めていく。
華やかな娯楽の少ない城に住む者たちはこうして、酒と楽の音と舞に酔う夜を過ごしたのだった。



少しだけ酒を味わったルースが広間を立ち去ろうとした時、彼を呼び止めてきたのは少ない芸人を束ねているという座長だ。
彼はもってまわった美辞麗句を駆使すると、本題として最後に一座の歌姫を彼に勧めてきた。
この城を訪れる人間が、献上品のひとつとして彼に一夜の伽を務める女を差し出してくることは決して珍しくない。
ルースは少し考えたが、近くにいるラノマを手招くと耳打ちした。
「だそうだ。欲しいか?」
「殿下、覚えといて下さい。オレ、もっとむちっとした女が好きです」
「……覚えておかないといけないのか? それは」
部下の好みはさておき、件の歌姫は随分華奢な体つきをしている。
艶めいた黒い瞳はリサイでは珍しく、また赤すぎない小さな唇に、ルースは少し興味を持った。彼は歌姫を寝室に伴うことを決めると広間を後にする。
普段であればリグは、彼が女を連れた時点でいずこともなく姿を消してしまうが、今日は宴席の前から姿が見えない。廊下で疲れて寝ているのだろう。
先に一度、様子を見に行けばよかったかともルースは思ったが、リグは小さな子供ではない。明日になればまたふらっと戻ってくるだろう。
彼は自室に戻ると水差しから水を汲んで口に含む。酒の残滓を拭う杯を、彼は女に掲げて見せた。
「飲むか?」
「いいえ。ありがとうございます」
灰色の外衣を着ていた女は、それを床に落とす。
黒い薄布に包まれた躰は、蠱惑的な魅力を醸し出していたが、それだけではなく何処か病んでいるような歪さをルースに感じさせた。
「道中で疲れたか?」と聞くと彼女は「元より丈夫な体ではないのです」と返す。
「少し、暑さにやられたのかもしれません。ここは王都よりも随分日が強いようですので」
「ああ。そうだな。俺も慣れるまでは暑くて仕方なかった」
「王都の方がよかった、とは思いませんの?」
女からのこういった質問は少なくない。ルースは苦笑して寝台に腰掛けた。
「別に。あそこに望むようなものはない」
「勿体無いことですわね」
聞きなれた感想は、けれど多くの女たちのように、男の身分にあやかれないことを惜しがっているのではなく、どこか不運に同情しているようにも聞こえた。歌姫は男の待つ寝台に向かって細い足を踏み出す。
「兄君たちを恨んだりはなさらないので?」
「俺のことについては別に」
「殿下はお優しいのですね」
女は彼を前に足を止めると、黒い薄布をも脱ぎ捨てる。その下の体は月光のせいか蒼白いほど透きとおっていた。
軽く目を瞠る男に彼女は嫣然と微笑む。
「わたくし、王都では白姫と呼ばれておりました」
「言いえて妙だ」
旅芸人の一座に属する女が娼婦を兼ねていることはままある。つまり彼女もその一人なのだろう。
ルースは自分に両腕を投げかけようとする女を手で留めた。青い瞳で一糸纏わぬ歌姫の全身を眺める。
「手を広げて、ちょっと回ってみせろ」
「……何故ですの?」
「いや。念の為だ」
少し違和感を覚える。兄たちについて触れたことや、端々に見える妖しい微笑などに。
だからこそ彼は万が一の可能性を考えて武器などを隠し持っていないか確認したのだが、少し不満げな目をしながらも一回転した彼女に何も怪しいところは見えなかった。酒のせいだろうかと内心首を傾げて、ルースは「悪かった」と謝る。
魔術を使う類の人間かとも考えたが、彼らはまず絶対数が少ないのだ。そのほとんどは何処かに隠遁しているか、有名な例でもノイディアの神官筋などで、人前に姿を現すことは滅多にない。こんなところにいるということはまず考えられないだろう。
彼はそう思いつつもだが、いささか気乗りしないこともあって彼女を下がらせようとした。
嬉しそうに彼の首に腕を回そうとする白姫に向かって、ルースは口を開きかける。

揺れ立つ影。
女の体が前触れもなくのけぞったのは次の瞬間だ。
男の前に投げ出されかけていた身。その細い躰が刹那で仰向けに引き摺り倒される。
そこにいるものは闇と同化した影だ。音もなく女に襲い掛かったリグは女の白い肩に咬みかかっている。
深々と刺さった牙に彼女は目を見開いた。みるみるうちに血で染まっていく己の体を恐怖と苦痛の貌で見やる。
「あ、あああああっ!」
「リグ!」
絶叫と、豹の名を呼ぶ怒声が夜気を切り裂く。
だが主人の声を受けても、獣は蹂躙をやめなかった。鈍い音を立てて女の肩を噛み砕くと血に染まった顔を上げる。
夜に光る金の瞳。人のものではない双眸が、男の目を真っ直ぐに見上げた。
「やめろ! リグ! どうした!」
解放された女は悲鳴を上げながらルースに向かって手を伸ばす。
だがその手が届くより先に、リグは女の喉笛に食らいついた。明らかな致命傷を受け、女の体が弓なりになる。
凄惨な狩のひととき。
黒い獣はそのまま獲物を、闇の中へ引き摺っていこうとした。
女の掠れた呻き声。骨が砕ける音がそれに続く。
「リグ!」
―――― どれほど長い間共にいたか。
その信頼が、絆が、今この場にあってもルースに剣を持たせなかった。
瀕死の女を連れ去ろうとする豹に向かって、彼は手を伸ばす。しかしリグは、女を放すとその手に威嚇の牙を剥いた。ルースは成獣になってから初めて自分に向けられた牙に息を飲む。
「どうした……」
女は、きっともう助からない。だがこのままにしておくことも出来ない。
身を屈めたルースはもう一度手を伸ばす。リグの頭をそっと撫でようとした、その時。
リグは濁った音を立て咳き込んだ。女のものではない血が吐き出される。
「リグ!」
様子がおかしい。
ごろごろと異音に喉を鳴らして血を吐く豹は、すぐにその場で崩れ落ちた。その瞬間ルースは全てを悟る。
「毒か!」
既に事切れている女。その女こそが毒そのものだったのだ。
体液全てが毒に変じている人間。幼少時から毒を飲み続けたからとも、魔術によって変質したとも言われる暗殺者。
リグは獣の嗅覚でそれに気付き女を攻撃したのだろう。ルースは血に汚れるのも構わず、横たわる豹を抱き上げた。扉を蹴り開け、廊下に向かって叫ぶ。
「誰か来てくれ! 毒が盛られた! ネズを呼べ!」
騒々しい空気が広がる夜の城。
そうしてウィリディス城には―――― 十年ぶりに暗殺者の忌々しい一撃が加えられてしまったのである。






城に泊まっていた商隊のうち、芸人の一座はいつの間にか姿を晦ましていた。
暗殺者を引き込んだとして兵たちに詰問された商人は、目を白黒させる。
彼が言うには、芸人の一座は王都で知り合い一緒になっただけで、よくよく思い返してみればその詳しい素性を知る者は誰もいなかったのだという。
真実を知った城の者たちはみなが苦々しい思いを噛み締める。
「それで、リグは?」
ラノマは治療室から出てきたネズに問う。
先ほどまでここにはルースもいたのだが、彼も彼で女の血に触れた際に毒されてしまったらしい。命に別状はないものの高熱を出し、部下たちの手によって強引に部屋へ戻されていた。
一方主人よりずっと状態が悪いリグは、ネズの手によって治療を受けている。
であるのだが、彼は不機嫌そうに舌打ちするとラノマに答えた。
「ありゃ無理だ。人間よりはあの手の毒に強いみたいだが、それにも限度がある。朝までは持たんだろう」
「……まじか」
ルースがどれだけリグを大事に思っているか、それは数分前までこの場で激昂していた様子を思えばよく分かる。
そうでなくともずっと彼らは共にいたのだ。その喪失がどれ程痛手になるのか、想像がつくからこそラノマは想像したくなかった。彼は苛立ちを込めて壁を蹴る。
自分が女を引き受ければよかった、とは思わない。死にたくないのは自分も一緒だ。
ただ、もっと疑えばよかったのだ。たとえばあの歌姫は、宴の間中一度も飲み物を取らなかった。盃に直接口をつけて酒などが変色することを嫌ったのだろう。それを怪しめばよかったのだ。
―――― 十年も何もなかった。だから、これからも何もないだろう。
そんな甘い考えがなかったとは誰にも言えない。だが、その考えは本当に「甘い」ものでしかなかったのだ。
壁を蹴るラノマを誰もが留めない。ある者は怒りを、ある者は悲しみを目に浮かべて沈黙している。
そうして彼らはまた一つ、喪失を背負う覚悟を突きつけられたのである。






「リグ」
反射的に手を上げる。傍にいる影を呼ぶ。
そうして飛び起きたルースは、しかし汗でひどく湿った全身に気付くと眉を寄せた。
普段は使っていない部屋の寝台。違和感のある光景に昨晩の記憶が甦ってくる。
黒い豹はいない。彼の視界には誰もいない。
ただ、先ほどまで誰かが彼の汗を拭いていたのだろうと思しき水盆が、枕元に置かれていただけだ。
「リグ」
熱は下がっている。体にもおかしなところはない。
ルースは寝台から立ち上がると、扉へと向かった。リグの容態を聞こうと意識が急く。
しかし彼が自ら廊下に出るより先に、扉は別の人間によって開かれた。
主人の着替えを持ってきたランは、起きているルースに目を丸くする。
「殿下、お体は」
「もう平気だ。それよりリグは」
「リグは……」
ランはうろたえたように辺りを見回した。その様子に彼は嫌な予感を抱く。
廊下を振り返った彼女は、何かに気づくと唇を噛んだ。一歩横に避け扉の前を空ける。
やって来たのはヴァーノンとラノマの二人である。
そのうちヴァーノンは白い布に包まれた何かを腕に抱いていた。ルースの青い目が見開かれる。
「リグ?」

どれほど苦しい時でも、寄り添えばその苦しさが薄らいだ。
そうして影は、彼を支えその感情を分けあってきた。この城に来た時も、少女が死んだ時も、ずっと。
だが、今の彼には影がない。こみ上げる喪失を分かち合う相手がいない。

「リグ」
他の言葉など何の意味もないかのように、ルースはその名を呼ぶ。
そうして白い布包へ伸ばされる手を見やったラノマは―――― 苦々しい顔で視線を逸らすと、そこから先を見ることを拒むように廊下を立ち去ったのである。