区切られた空 08

禁転載

道なき道を駆け下りていく。草木が生い茂る森、昼なお暗い青の山を彼女は下っていく。
周囲に人はいない。共に行く人間たちは、皆ばらばらに山を下りることになっている。そうすれば見張りの目を誤魔化せるからだ。
荒い息。破裂しそうな心臓。だが、それでも彼女は体を酷使して走る。木の幹に手をかけ、草の上を滑り下りていく。
急がなければならない。「彼女」が作ってくれた時間を無には出来ない。
自分たちの肩の上には、この国の民全ての命運がかかっているのだ。
「絶対……負けない……」
口の中で消えない怒りを呟いて、彼女は森の中を駆ける。
その先に待っているであろう国境と、広がる自由な荒野を目指して。






露台から見上げる空はいつもと変わらず青い。
ルースは生温かい風に乱された髪を手で乱暴にかきあげた。欄干に膝を立てて座りながら、手に持った書類に目を通していく。
王都の現況を伝える報告書。そこに書かれていたものは要約すれば、王の政には迷走が見られ始めているということだった。
一年間にわたり小規模な戦闘が続いているという北部国境が、その遠因であるのだろう。この荒野とは違い、肥沃な草原を広い河が横切っているという国境をルースは思い起こす。
「それほど苦戦しているのなら、俺のことなど放っておけばよかったのだ」
苦い呟きは誰の耳にも届かない。男は書類から顔を上げ、空を見上げる。
彼の足下に影はいない。ただ、乾いた露台を風だけが通り抜けていった。






反撃をすべきか否か―――― それは城の者たちの間でも意見が分かれるところである。
何故今、暗殺者が現れたのか。その理由をはじめ、確定できないことが多すぎるのだ。
主がいない執務室で、顔をつきあわせた者たちは各々疑問と意見をつきあわせる。
「大体十年前とやらの犯人はどうなったんだ? 逃げられたのか?」
「俺が殺した」
ラノマの問いに苦々しく答えたのはヴァーノンである。彼は当時を知らない数人の視線を受けて情報を補足した。
「血のついた短剣を井戸に捨てようとしていた男がいたんだ。不審に思って声をかけたら、向かってきたから殺した」
「何か言ってたか?」
「何も。持ち物にも何もなかった。ただ後で死体の顔を見せたら、その男を王都で見たことがあるという人間がいた」
「なるほどな」
結局、王がこの城に刺客を送り込んできたのか否か、灰色に見えても確定は出来ないのだ。
十年前については言うまでもなく、今回の旅芸人たちにいたっては、死亡した女を除いて皆取り逃がしてしまった。
あとで城門の見張りから「急な事情で出立すると言うから出してしまった」という報告を受けて、ラノマなどは叫びたくなったくらいである。
もっとももし捕まえられても有力な証言を得られるかといったら、それは難しいのであろうが。

守りに徹するか反撃するか、どちらにせよ必要だということで、王都の詳しい情報を集めてみたが、それは彼らに一つの道筋を示すものではなかった。
ラノマは机の上に広げられた地図を指で叩く。
「北部との小競り合いに手こずっているっていうなら今が好機だろ? 後ろから王都に行って刺してやればいい」
「こちらを背後とは思っていないだろう。それにいくらなんでも兵力差がありすぎる。俺たちは暗殺者じゃない」
「補給にかける金が足りない」
ヴァーノンとイルドの二人から即座に否定されて、男は閉口した。
現実問題として兵力と資金はどうしようもない壁である。これを無視して宣戦をしかけても無残な結果が待つだけだろう。
ただ、それはあくまでも現時点でのことだ。
もしルースが王との戦いを視野に入れて準備を始めるなら、早ければ数年でこれらの問題は解消可能であろうと、多くの者は予測していた。
簡単なことだ。ラノマではないが、リサイ国内の有力者や領主たちと個別に交渉し、将来のことを約束してこちらにつかせていけばいい。
ましてやルースは街道を守っていたここ十数年の間に、その能力と性格で多数の商人たちの信用を得ているのだ。
その中にはかなりの豪商も含まれている。これらの人脈を使って地固めを進めていけばいいだろう。
―――― だから結局のところ、問題になるのは戦うのか否か、それだけである。
そしてそれは、最終的に主人の決断によって左右されるのだ。
彼らはその決断がどちらに転んでもいいよう、ただ出来ることをして待つだけである。
「でも今回みたいなことがまたあるんじゃ、殿下は戦いたがらないんじゃないか?
 あの方にとっては自分が標的になるより、周囲を削られる方が余程おつらいだろう」
いささか気落ちした声で一人の男が口にすると、他の何人から同意の溜息が洩れた。
だがそれを遮るようにラノマの鋭い声が飛ぶ。
「何か勘違いしてないか? オレたちの主はあの方で、それを守る為に他の人間が盾になるのは当然のことだろ。
 今回だってそうだ。リグはやられたんじゃない。戦っただけだ。
 だからちゃんと殿下は無事でいるんだろう。それをこっちの負けみたく言うな、アホか」
狙われたのはルースであり、だが彼は「守られた」。
彼の影は己の使命を十全に果たしたのだ。その犠牲を必要以上に嘆いてはリグが報われない。
黒豹の行動を自分の身に置き換えたのか、数人の男が表情を変える。ラノマは更に続けた。
「戦闘で死んだ奴を惜しむのは分かる。けどそれが怖いからって戦わないわけか?
 百歩譲ってそれで相手が手を引いてくれるっていうならともかく、そうじゃないのは今回分かっただろ。
 オレは戦うべきだと思ってるし、殿下にもそう勧める。
 まだ何も負けてないだろ。問題はこれからだ」
男の意気は荒いものではあったが、沈みがちだった場の空気を引き戻すには充分なものだった。
元々この場に集まっている者は、それぞれの事情を経て荒野の城に落ち着いた人間たちである。苦を苦で終わらせぬ気骨は持っているのだ。
ラノマの発言を皮切りに、意識を切り替えたのか、場には積極的な意見がいくつか出始める。
その中には王都に協力者を得るべきだというものもあり―――― セレディアの伯父をはじめ何人かの名前が挙がった。
イルドがふと思い出したかのように、それらの名の中にもう一人を付け足す。
「そう言えば、殿下の兄君が一人いるな」
「兄? 敵じゃないのか?」
「いや、全員がそうじゃない。二番目の兄のペール殿下は、最初の数年殿下を気遣う書簡をよく送って来られてた」
「ペール?」
ラノマがつい嫌な声をあげてしまったのは、宮仕えだった時の記憶を思い出したからである。
四人いるルースの兄のうち、ペールはある意味王よりも癖のある人間に見えていたのだ。いつも笑みを絶やさず、だが嗜虐的な目をしていた男。
彼は他の者たちが議論を重ねる中、無言でしばらく考え込んでいた。
そうして最後に誰よりも早く席を立つと―――― 「ペールについては保留にしてくれ。オレがちょっと心当たりをあたってみる」と部屋を出て行ったのである。






何が起ころうと、やるべき仕事をやらないわけにはいかない。
むしろそれら仕事や、そして生理的な欲求があるからこそ人は次に気付けるのだろう。
ルースは日々の執務を普段と変わらぬそつのなさでこなしていった。いくつかの報告に目を通し、その最後で首を傾げる。
「ノイディアの情勢が怪しくなっているのか」
「そのようです。情報に統制をかけているようですが、物を売りに行って追い返された商人が後を絶たないようで。
 何かがあったようですが、その何かは分かっておりません」
「不穏なことだな」
ノイディアはこの城から見て国境を挟み、すぐ隣に位置しているが、リサイ側に荒野が広がっているように、ノイディア側にはまず森に覆われた山の斜面がある。そこを枝分かれした街道は更に貫いて延びているが、行き来しているのはもっぱら他国の物売りたちで、ノイディアの民はその性格の為か好んで外に出てくることはあまりない。
だからこそ隣国でありながらその内情はよく分かっていないのだが、何かが起きているというなら火の粉がこちらまで降りかかってこないとも限らないだろう。
ルースは国境方面の見回りを強化するよう指示した。イルドを相手に、ふと思い出したことを口にする。
「そういえばあの国にはまだ魔術が存在するんだったか?」
「ノイディアの民はそれを神から与えられた力、と思っているようですが。真実かどうかは分かりません」
「一度見てみたい気もするんだがな」
仕事に関係ない会話はすぐに打ち切られた。イルドが退出し、一人になるとルースは大きく息をつく。



―――― とても、とても疲れた。
一度蹲ってしまえば、もう立ち上がりたくなくなるであろうほどに、とても。
だが彼は膝を折るような真似はしない。それは城に住む他の者たちを裏切るも同じだ。
今更挫けることはしない。
十三年前この城へ来た時、彼は「死なない」ことを選んだのだ。
だから埋められぬ喪失を負ってなお、彼は前を向く。
残る城の人間を、家族を、生かす為に立ち続ける。



「リグ」
届かない呼び声。己のそれを聞いたルースは目を閉じる。
抗いがたい疲労が、彼の意識を眠りの底へと引きずり込んだ。少しの間、彼は思考の空白を求めて意識を休める。
―――― そうしてけれど、目が覚めれば再び現実が待っているのだ。






「国境方面から城に向かって、街道を怪しい人間たちが移動しているようだ」との報告が入ってきたのは、夕方のことだ。
ルースはそれを聞いて少し考え込んだが、普段通り様子を見て、敵意がないなら放置しておくよう命じた。
その通り命令を遂行した部下たちは、更に一時間後、ぼろぼろの一団を連行して帰ってくる。
城の男たちがかけた誰何の声に、いきなり剣を抜いて威嚇してきたという一団は、どうやらノイディアの人間らしい。
捕らえられた十数人を広間に引き出しているとの報告を受け、ルースは怪訝そうな顔になった。
「珍しいな。ノイディアの人間とは」
「さようで。風体からするとまるで何処からか逃げ出してきたようとのことでしたが」
「魔術を使える人間がいたら面白い」
好奇心が伺える主人の言葉にイルドは白い目を向けた。
代わり映えのしない白い空。広間に向かって廊下を行くルースは、柱の影に気付いて声をかける。
「リグ、来い」
男の声に応えて黒い獣が姿を現す。
まだ体力が戻りきらないのか、普段よりもゆっくりと近づいてきた影は、そうしてルースの足下に寄り添うと再び共に歩き出したのだ。