月影 09

禁転載

―――― だからどうか、王になって。






毒によって一時は生死の境を彷徨ったリグは、しかしネズの苦心の甲斐あって、何とか数日間に及ぶ危篤状態から脱した。
まだ前のように動くことは出来ないようだが、それでもルースにとっては充分である。
彼はふっと笑顔になると傍を行く尻尾に手を伸ばした。だがそれは、掴まれる直前でするりと男の手の中を逃げ出す。
ルースは残念そうな顔になったが、リグは我関せずである。そのまま彼の一歩先を滑るように歩いていった。
「それで、ノイディアの連中は何か言ってるのか?」
「何も申していないそうです。ただこちらが先に剣を抜いて脅してきたのだと……」
「水掛け論になりそうだな」
この手の話は感情的になればなるほど、また時が経てば経つほど「何が本当だったのか」明らかにするのは困難になる。
ルースはどう収めるべきか考えながら、リグに続いて大広間へと足を踏み入れた。

広間の床に直接座らされている一団のうち、真っ先に目に入ったのは一人の少女である。
射抜くような強い視線でルースを睨んできた彼女は、怒りを全身に漲らせており、薄汚れた全身に反して生命力に富んで見えた。
ルースは彼女の右手に巻かれた包帯と、擦り切れた履物を順に見やる。
彼に気付いたヴァーノンが振り返った。
「殿下」
「どうなってる?」
「それが……」
「さっさと放しなさい! 私たちは何もしていないわ!」
怒気も荒く声を張り上げたのは先ほどの少女である。ヴァーノンの「と、いう状態です」相槌にルースは苦笑した。
だが、彼ら集団も別にこの少女が代表者ではないらしい。少女の隣にいた男は「いいから黙っていてくれ」と大きく溜息をつき、場の笑いを誘った。それが更に少女を苛立たせる。
汚れた格好をしているが、元はいい家の出の令嬢なのかもしれない。
発音などからそう判断したルースは、彼女と隣の男の前に立った。長身を屈めて覗き込む。
「一応こちらの人間が言うには剣を抜いて応じてきたというから拘束したが」
「先に抜いてきたのは貴方たちでしょう! 何故、私たちが拘束されなければならないの!」
「先にこちらが抜いたのだとしても、目的が分からない他国の人間を王都に行かせるわけにはいかないからだ」
ルースが返すと少女は蒼ざめて言葉に詰まる。彼女に代わって隣の男が口を開いた。
「王都に行きたいわけではない。ただ、負傷した人間がいる。治療の為の時間が欲しかっただけだ。
 状態が落ち着けばすぐにノイディアへ戻る」
「追われているのか?」
彼らもまさか、このようにリサイで捕縛される可能性がまったくないと思っていたわけではないだろう。
それを押してでも国境を越えてきたのは、追っ手を撒く為ではないのか。
ルースはそう考えたのだが、この推測は図星であるようだった。男の表情が固くなる。彼はだが、それには反応せずに重ねて問うた。
「ノイディアに戻ってどうするんだ?」
「……そこまで教えるつもりはない」
「まぁ、そうだろうな。ならここで怪我の手当てをすればいい」
「え?」
気の抜けた返事を無視して、ルースはヴァーノンに手配を命じる。
それに応じて女たちが現れ、怪我人に名乗り出るよう声をかけると、彼らは困惑した顔になった。
少女が立ち去ろうとするルースに声をかける。
「何故、助けるの?」
「お前たちを積極的に助けるつもりはないんだが……。この荒野、ノイディアの人間が弱った状態で過ごすには辛いぞ。
 行き倒れて街道で死なれたりすれば、道を行く商人や旅人が嫌がるからな」
「それだけ?」
「それだけ。ああ、見張りはつけるぞ。自由な行動は制限させてもらう」
軽く手を振ってルースは踵を返した。だがふと思い出して少女を振り返る。
「そう言えば、お前たちの中に魔術を使える者はいるのか? ちょっと見てみたい」
彼にとっては軽い好奇心だ。折角だから聞いてみた、というだけの問い。
だがそれを聞いて、少女はまるで傷ついたかのように顔を歪める。
そうして彼女は力なく項垂れると―――― 「誰もいないわ」と苦々しく吐き捨てたのだった。






執務室に戻ったルースは、ノイディアからの一団について重ねて詳しい報告を受けた。
その報告によると、怪我人たちの容態やその傷跡から察するに、やはり人間に追われていたらしい。
矢傷を受けている者や、鎖による拘束の傷跡があったという者もおり、イルドは「罪人が逃げ出したのではないか」と結論付けた。
「罪人か。ノイディア本国に問い合わせを出した方がいいか?」
「かもしれません。が、商人たちが追い返されているとなると、通常の書簡では届かない可能性が高いでしょう。
 伝令を直接向かわせる方が早いかと思います」
「ノイディアの王都まで片道で一週間ほどかな。リサイ王都よりよっぽど近い」
さて、どうしようかとルースが考えていると、隣に来たリグが前足で彼の膝をたしたし叩いてくる。
最初は遊びたいのかと思って撫でてやったが、豹はその手を煩わしげに避けると、繰り返し彼の足を叩いた。ルースは首を傾げる。
「何だ、どうしたんだ」
彼は顔を近づけて問うたが、リグが何を訴えたいのかさっぱり分からない。
分からないのでルースは黒い前足を二本、両手で取って踊りでもするように左右に揺らしてみたが、豹はふてくされて部屋の隅へ行ってしまった。
このようなことは非常に珍しい。首を捻る主人にイルドは指摘する。
「まだ体調が芳しくないのではないでしょうか」
「かもしれんな」
リグの行動は不可解だが、とりあえず放っておくしかないだろう。
ルースはノイディアへの報告を「とりあえず明日決める」と結論づけると、他の仕事に取り掛かった。






日が完全に落ちきってしまうと、広がる荒野は昼の強い日差しから一転し、冷たい月の光に照らされることになる。
それは静謐が立ち込める世界であり、人を寄せ付けぬ荒野のもう一つの姿だ。
ルースは自室の露台からその景色を見下ろす。
何十年後、何百年後にはこの乾いた大地も草原となるのか、そんなことをふと考えた。
―――― もし、何をしたいのか、と問われたら。その問いに即答することは出来ないだろう。
荒野を変えたいという理想があるわけではなく、王都に戻りたいという野心もない。
ただ日々生きる為に食事が必要であるように、この先もこの城で人々が生きていく為、やらなければならないことをこなしているだけだ。
全てはそれだけのことで、彼はそれ以外によって動いたことはない。今まではずっと。
―――― たとえば時折、抑え難い怒気が胸を焼くこともある。
だがその衝動を全てに優先させてしまうことはできないだろう。だからこそ彼はこの十数年で、怒りを押し込めて生きていく術を身につけたのだ。
「ままならないな……」
苦笑を湛えて、ルースは目を閉じる。
その時、やって来たリグが彼の手に鼻をこすりつけた。冷たい感触にルースは笑い出す。
今度こそ尻尾を捕まえてやろうと手を出すと、しかしリグは慌てて部屋の中に戻っていった。寝台に飛び乗り、白い掛布の中に潜り込む。
「何だ。隠れているのか? それとも一緒に寝るか?」
そんなことをしたのはどちらもまだリグが小さかった頃のことだが、大きくなっても時に遊びたがる豹であるからして、今もそうなのだろう。
彼は部屋に戻ると硝子戸を閉めた。腰に佩いていた剣を外すとテーブルの上に置く。
「病み上がりだからな。一緒に寝るのは構わんが寝ぼけて俺を殴るなよ。もう大きいんだから」
親愛のこもる声。男の言葉に白い掛布はもごもごと動いた。
ルースは寝台に向かって歩き出し―――― だが、違和感に足を止める。
掛布からはみ出ている黒い尾。それが、みるみるうちに布の下に吸い込まれていくのだ。
勿論リグは尻尾を自由に動かせるのだから、別に不思議がるようなことではないのかもしれない。
しかしそれは、尾が畳まれていくというより、まるで「縮んでいく」ようであった。
「リグ?」
不審を不審と思いたくない声がかけられる。
言葉の返らぬ静寂。薄い掛布はゆっくりと下から持ち上げられた。黒く小さな頭が現れる。
ルースはその光景を唖然として眺めた。
白い肩が続いて顕になり、細い両腕が寝台についてその躰を支える。
零れ落ちた長い黒髪。月光に美しい艶を作る髪は、それだけがリグの毛並みと似通っていた。小さな手が布をかき寄せ、己の躰に巻きつける。
そうしてようやく振り返った女は、深遠な闇色の瞳でルースを見つめた。
「……リグ、か?」
会ったことも見たこともない若い女。
思わず息を飲むほどの清冽な美貌は、だが何故か無性に懐かしい。
華奢な肢体を掛布で隠した女は、寝台から下りると小さな薔薇色の唇を少し上げ、淋しげに微笑んだ。
まるで非現実的な眺め。それを女の美しさが助長していることは明らかである。
ルースは半ば無意識のうちにこめかみを手で押さえた。
「何だこれは……夢か?」
「ルース、お願いがあります」
「喋った」
「聞いて下さい。大事な話です」
真剣な顔で訴えてくる女は、確かに彼の目の前で豹から人へと変じている。
そしてその豹は、長く彼の傍に寄り添っていた存在なのだ。
何が何だか分からず、彼は近くのテーブルに寄りかかった。普通に立っていては眩暈を起こしそうな気がしたのだ。
「ルース」
「言ってみろ」
おそらくこれは夢だろう。
だが、そこにも一筋の真はあるのかもしれない。
ルースは「リグ」の頼みとあって耳を傾けた。女は清んだ声を上げる。
「昼の、ノイディアからの一団、彼らの情報をノイディア本国に渡さないで欲しいのです」
「また随分具体的な頼みだな。どうした」
「どうしても。お願いします」
幻めいた空気にはそぐわない現実的なお願いである。
ルースは自分が情報を伝えるべきかどうか迷っているからこそ、その迷いが反映されてこんな夢を見ているのではないかと考えた。
リグを見ると彼女は必死な目をしている。彼は頷いてテーブルから体を離した。
「分かった。どうせそう長くはいないようだし、それで構わん」
「ありがとうございます」
「で、お前は見返りに何をくれるんだ?」
悪戯っぽく彼が笑って見せたのは、この夢が楽しくなってきたからだ。
『言葉がなくとも通じ合える』
それは彼がリグと過ごしてきた年月で築きあげた信頼関係だが、言葉が通じるならそれはそれで面白い。
ルースは所在なげに立つ女の前まで歩み寄ると、尻尾を掴むようにその髪の一房を手にとった。大きな黒い瞳がじっと彼を見上げる。
「見返りが必要ですか?」
「いや。お前の頼みなら要らない。既に充分過ぎるほど貰っている」
「なら何故」
「お前があんまり俺好みの女になるから。さすが付き合いが長いだけあるな。……いや、俺の夢なら当然なのか」
「何ですか、それは……」
今まで彼の前に立った女は数多くいたが、その誰よりも今ここにいる女は鮮烈で心を惹く。
ルースは白磁のような頬に触れた。長い睫毛が揺れ、リグがその手を見る。
気だるげな艶やかさ。月影によって塗り分けられた光と闇を、彼女はどちらも内包しているように見えた。
彼は黒髪から手を放すとリグの腰に手を回す。
「尻尾がなくなってる。残念」
「撫で回さないでください!」
嫌がって身をよじるさまは、姿が変わっても黒豹そのものである。ルースは無性にこみ上げてくる愛しさに女を抱き締めた。
「お前がいてくれてよかった。ありがとう」
返事はない。見下ろすと彼女は多くを孕んだ目で彼を注視している。
だがその感情の渾然の中に、ルースは確かに自分への情を見出して微笑した。揺らぎのない芯からの愛情に充足を覚える。
リグの額に口付けると、夢とは思えぬ温かな躰が少しだけ強張った。
それが何だか可笑しく―――― 欲が刺激される。
ルースは女を腕の中に閉じ込めたまま囁いた。
「夢の中ならば何をしてもいいと思うか?」
「その発想は危険では……」
「このまま目が覚めるのは惜しい」
後ずさりしたそうなリグを更に自分の方へと抱き寄せる。
彼女は諦めたのか、男の胸にもたれかかると小さく息をついた。濡れた紅い唇が開く。
「では、どうされますか?」
「お前には貰いすぎるくらい多くのものを貰ってきた。それを承知の上で聞くぞ? お前は、お前自身も俺に渡す気はあるか?」
「差し上げます」

白くたおやかな躰を持つ女。
華奢な肢体を明け渡されたルースは彼女を隅々まで調べたが、その美しい姿は間違いなく人間のものであったのである。