月影 10

禁転載

凄い夢を見てしまった。
というのが、起きてからまず初めに彼が思ったことである。
一体どういう無意識が反映されているのか。リグが女になるなど突飛にもほどがある。
確かに十数年彼に連れ添ってきた豹なら妻役としてこれ以上の適任はいないであろうが、それを女にしてしまうという自分の発想が怖い。
ルースは身の回りの支度を整えながら、何ともいえない脱力感を噛み締めた。
そもそもいつ寝てしまったというのだろう。記憶が捻れてよく分からない。
彼は部屋の隅で丸くなっているリグを呼んだ。黒い豹は大きく伸びをすると彼の足下に寄ってくる。
「……まぁ、得をしたというべきなんだろうか」
呟きに、リグは目を丸くしてルースを見上げた。
その目に昨晩の闇色の瞳が重なって見える。幻としか言いようのない美しい女。
きっとああいう女は実際には存在せず手も届かないからこそ理想というのだろう。
それを夢の中とは言え一晩自分のものに出来たのだから得は得だ。ルースはリグの頭を手で撫で回す。
「さて、じゃあ仕事をするか」
気分を切り替える一言を口にすると、リグは彼を先導して歩き出す。
そうして執務室に到着した彼は、けれどちょっとした夢の残滓に気付くことになったのだ。



「ノイディアへの連絡はいかが致しますか」
イルドにそう問われたのは、ルースがいつもの仕事をいくつか終えた後のことである。
彼は夢の中のことを思い出しながら、窓辺にいるリグを見やった。
「そうだな……。罪人であった場合は問題だ。一度早馬を出して様子を」
そこで彼が言葉を切ったのは、寝そべっていたリグが不意にびくっと跳ね上がったからだ。
豹は急いで彼の足下まで跳ねて来ると、その膝をたしたしとたたき出した。
まるで「話が違う」と言いたげなその姿にルースは一瞬、昨晩のことを思い出す。
「まさかな……」
あれは夢だ。夢でなければおかしい。
豹が人に変じるなど聞いたこともない。だからリグのこの態度は、何か別の理由があるのだろう。
彼は豹の大きな目をじっと見下ろす。
「いや、やっぱりノイディアには何も伝えない」
リグはそれを聞いて前足を下ろした。心なしほっとしているようにも見える。ルースは内心首をかしげた。
「……というのは嘘で、ノイディアには早馬を出そうか」
黒豹はぎょっと顔をあげると、先ほどよりも強く男の膝をたたき出す。
細く引き締まった豹の手で、じゃれあいよりも大分強く突き込まれるルースは少々の痛みを感じたが、それよりも訝しさが勝った。
呆れ顔をするイルドの前で、ルースは「報告する、しない」を繰り返す。
その度ごとに一喜一憂するように見える豹は、しまいに遊ばれていると思ったのか、そっぽを向いてしまった。
まるで人間くさい仕草に、ルースは腕組みして考え込む。
「何だ何だ。訳分からんぞ」
「殿下、それで報告はされるので……?」
もっと訳が分からないのはイルドの方に違いない。
考え込んでいたルースは現実を思い出したかのように顔を上げると、部下の問いに「しない」と答えた。



昨夜のことは、夢でしかありえない。
だが夢にしては、「いつから夢だったのか」よく分からないのだ。
ルースは部屋にリグだけになると、黒豹を手招いた。大人しく近づいてきた豹に顔を近づけて問いかける。
「お前、実は人間になれるのか?」
他の人間に聞かれたら正気を疑われかねない問いに、豹は首を振っているとも傾げているとも分からぬ仕草を返した。
ルースは前足を出させると、それらを二本とも持ち上げ、リグを無理やり後ろ足で立たせてみる。
「ちょっと人間になってみろ。俺しかいないから」
豹相手にかまをかけるという、自分でも正気を疑いたくなるような言葉だが、ルースは他に誰もいないとあって真剣な顔で口にしてみた。
だがリグは二本足で立っているのが居心地悪いらしく困惑した顔で男を見つめてくるだけである。
何が起こる気配もない。しばらくしてルースはリグの前足を解放してやると眉を寄せて腕組みした。
「やはり夢か?」
現実なのかと一瞬疑ってしまったが、実際疑うのも馬鹿らしいくらいあり得ない話である。
若干疲れているのかもしれない。ルースはこの件に関してそう片付けてしまうと仕事に戻った。
―――― 彼が自身の認識を改めざるを得なくなったのは、その夜のことだ。






いつも通り仕事を終え私室に戻ったルースは、着替えもしないまま長椅子に座り、書類に目を通していた。
日がすっかり落ちきってしまった時間。月光が生み出す影に、彼は書類を見たまま近くのランプの光量を上げようと手を伸ばす。
だがその指は僅かに届かない。ルースは改めて手を伸ばしなおそうとした。その時誰かの指が先んじて摘みを捻る。
「余所見は危ないですよ」
「ああ、悪い」
反射的に返事をして、だがルースはぎょっと顔を上げた。ランプの隣に立つ女を見出し唖然とする。
「……俺はいつ寝たんだ?」
「言いたいことはそれだけですか? 昼のあれはどういう仕打ちですか」
昨晩と同じように白い躰に布を巻きつけただけの彼女は、だが表情を見るだに明らかに怒っている。
おそらく昼間からかわれたことを根に持っているのだろう。彼女が本当にリグであるのならば。
ルースはしばらく考え込むと、無言で女を手招いた。手の届くところにくると白い手を引いて腕の中に抱き寄せる。
そして嫌がる彼女の胸元を剥いで覗き込み―――― そこに昨晩自分のつけた痕を見出した。理解を越えた事態に言葉を失くす。
「ルース! 放してください!」
「……意味が分からない」
「夜しか戻れないんですよ! そろそろ飲み込んでください!」
「戻れない?」
ようやく男の腕の中を脱した彼女は充分な距離を取ると息を整えた。批難の目で男を睨む。
「信じないのは構わないですけど、約束の反故はやめてください。噛み付きますよ」
「戻れないって。お前、そっちの姿が元なのか?」
長い黒髪に白磁の肌、闇色の目の美しい女。
それがずっと連れ歩いていた豹の本来の姿だというのだろうか。
ルースは今までの認識の大半をひっくり返されるような話に再び沈黙した。何とか思考を整理し、再び問い直す。
「どういう仕組みだ。そういう種族なのか?」
「違います。魔法の一種です」
「ああ、魔術なのか……」
見てみたいとは思っていたその力は、この大陸においては徐々に使い手の数が減り、今では稀少すぎるものとなってしまっている。
西の大陸では当然のように浸透しているとも聞くが、こちらの大陸には滅多にそれを使える人間は渡航してこないのだ。
それをひょんなことから目の当たりにすることになって、ルースは複雑な感情を抱いた。もう一度リグに向かって手招きするが、彼女は近づいて来ない。
「今、非常に衝撃を受けている」
「確かに魔法の使い手は現状数少ないのですが、私は確かに」
「お前に分かるか? ずっと一緒にいて油断して何でも見せていた相手が実は人間だったというこの衝撃が」
「…………」
「どうしてくれよう。もっと恥ずかしい目にあわせてやろうか」
「やめてくださいよ!」
彼が長椅子から立ち上がると、リグは何かされると思ったのか後ずさった。
しかしルースは逃げ出す間を与えず彼女との距離を詰めると、軽い体を抱き上げる。顔を引き攣らせる女を至近から覗き込んだ。
「何で今まで人間の姿に戻らなかったんだ?」
「戻れなかったんですよ。最近ようやく力が緩んで戻れるようになったんです。夜だけですけど」
「おかげで十数年も俺は恥をかく羽目に……」
「そんなの知りませんって! 忘れましたよ、もう!」
「何が欲しい?」
「はい?」
唐突な話題の転換に女はついてこれないようだった。大きな目を丸くして男を見上げる。
ルースはその闇色の瞳の奥底までを見つめた。探る為ではなく注ぐ為の視線。女の目に清澄な感慨が浮かぶ。
「お前が人間だったら、と思ったことは数知れない。お前に多くを返したいと思ったことはそれ以上だ。
 だが今は、折角お前が人間だと分かったのに、あんまり驚いて何をやればいいか上手く思いつかない。
 だから何が欲しいか言え。それをやろう」
今の彼女であれば、どんな宝石や衣裳もその美しさを捧げるに足りるだろう。
貴族の姫のように着飾って、そうして人々の羨望と憧憬を集めることも容易なはずだ。
だが実際のところルースは、リグが果たしてそのようなものを喜ぶのかどうか、まったく自信がない。
月そのもののような清冽さを持つ彼女を飾り立ててみたいと思わないではなかったが、それ以上に望むものを与えたいと彼は思っていた。

リグはじっと彼を見返す。
白い小さな手が男の両頬に添えられた。闇色の瞳に、瞬間見通せない愛惜が広がる。
だが彼女はすぐに瞼を閉ざすと両腕をルースの首に絡めた。そっと躰を添わせて、小さな溜息をつく。
「欲しいものなんて、いっぱいありすぎて決められません」
「なら一つずつ言え」
「もう少し、傍に置いてください」
掠れた語尾は、気のせいか泣いているようにも聞こえた。
何故彼女は魔術による制限を受けているのか、どのような過去を持ち合わせているのか、ルースは自分の知らぬ事々に思いを馳せる。
しかしそれは、彼らにとってほんの一部でしかないだろう。姿が変わり、形こそ違えど彼らは変わらず寄り添っている。
そこに疑いはない。愛しいと、思うからこそ素直に口に出来る。彼は抱き上げた温かな体に御しがたい感傷を抱いた。
そうしてルースはリグの頭をゆっくり撫でる。
変わらない関係を再確認するような一時。彼はリグの背中を軽く叩くと「それは俺が嬉しいだけだな」と微笑ったのだった。