縫われた夜 11

禁転載

曝け出された喉元は無防備そのものである。
ルースはその白い喉に口付けると女に囁いた。
「本当の名前は何だ?」
「……ほんとうのなまえ?」
彼女の返答は舌足らずになっている。思考が上手く回っていないのだろう。聞き返す声に男は笑った。
「リグとは俺がつけた名だ。元が人間なら元の名前があるんだろう。それは何だ?」
女は大きな眼に男の顔を捉える。
そうして彼女は感情の判然としない苦笑を湛え、熱い息を吐き出すと「そのうち分かります」と呟いた。






朝起きた時、彼女は既に元の姿を保っていなかった。寝台の隅で丸くなって眠っている。
姿が変わってから丸くなったのか、その前から丸くなっていたのか、ルースは寝起きの頭で少し悩んだ。
彼は寝台脇のテーブルに手を伸ばし、そこに置いてあった紙を手に取る。
白紙であった紙には、黒い染料をつけた女の手形と署名が残されていた。意外にも綺麗な字で「リグ」と書かれたそれを、彼はまじまじと凝視する。
「やっぱり現実なのか……」
世の中にはどうやらまだまだ不思議なことがあるようである。
ルースはそう片付けるしかない出来事をそう片付けると、残っていた染料を寝ているリグの前足に塗り、豹の足型も取ってみたのだった。
当然目覚めたリグには嫌な顔をされた。






王都の情報は、毒姫の事件以来絶えずウィリディス城にもたらされるようになっている。
それは北部国境の件も含め、現体制にとって芳しくない情報が過半数を占めていたが、この場合それを喜ぶべきか否か、ルースは割り切った判断を下せていなかった。
積み重なる書類に目を通していきながら彼は眉を顰める。
「俺には権勢への欲がないと、分かってもらえるのが一番なんだがな」
「まーだそんなこと仰ってるんですか、殿下」
乱暴に扉を開けて執務室に入ってきたのはラノマである。男は手に持った封書を主君の目の前に置くと、開けるよう示した。
「ヴォルグ殿下からの書簡です。読んでみて下さい」
「兄上からの?」
懐かしい名前にルースは驚いた。
四人いる兄のうち一番年下のヴォルグは、ルースにとっては最後に会った時の少年の姿のまま記憶に残っている。
無器用ではあったが誠実で平等な性格を持っていた兄。それは腹違いの弟に対しても変わりなかった。
ルースが手紙を開いてみると、そこには先日の暗殺未遂の件について彼を気遣う言葉が書かれており、王都の現状について簡単に触れた後、「何か困っていることがあって力になれるようだったら言って欲しい」と締めくくられている。
唐突とも言える好意的な内容に、ルースは手紙をもう一度読み返した。
「何だこれは」
「何だじゃないでしょう。殿下の兄君です」
「それは分かるが、何で急に手紙を送ってくるんだ?」
「俺がこないだのことを連絡したからですよ」
ラノマは面倒くさそうに言い切ると、机に両手をついてルースを見る。
普段は飄々と構えている男。だがその両眼にはこの時、真剣に向き合うことを要求する意志が灯っていた。
主人を前にラノマは淡々と言を紡ぐ。
「これからの為には王都に協力者が必要です。
 オレは宮仕えをしていた時、ヴォルグ殿下と話をしたこともありますが、王に比べてあの方は遥かにまともですよ。
 すぐ上のログ殿下もそうだ。あのお二人は、王やペール殿下なんかよりずっと王族としての意識を持ってる方たちでした」
現王の体制を批判しているとしか聞こえない話。
それを聞いてルースはさすがに顔色を変えた。眉を寄せて部下を見上げる。
「待て、ラノマ。何故そう急くんだ」
「急いてませんよ。遅すぎたくらいだ。領主連中にも今探りを入れています。
 誰が殿下にとって有益な味方になれるのか、一月も経てば一覧にしてお渡ししますよ」
「まだ戦を起こすとは決めていないぞ」
それは、とても一朝一夕で決められる問題ではない。
始めてしまえば、下手をせずとも国が大きく変わる。ただでは済まない。犠牲も多くでるだろう。
ようやく戦乱の時代を脱したこの大陸にとって、それは避けられるべき選択だ。可能ならもっと別の道を選びたい。
そもそも突き詰めればこれは単なる私怨の応酬ではないのか。
―――― そう考え、部下の焦燥を留めようとするルースの言葉に、だがラノマは一歩も引こうとはしなかった。目を細めて主人を見やる。
「殿下。あんたは確かにお優しい。だけど、ただ優しいだけの人間じゃないでしょう。あんたが持っているものは王の器だ。
 十四年前から今まで、この城であんたがどれだけ苦労したのか俺には全部は分からない。
 でも王都の下町だってひどい有様でしたよ。弱い者は死ぬしかなかった。俺はそこで泥水を飲んで育ったんだ。
 民が、優しい王を欲しがって何が悪い。
 あんたには王になれる血も、ふさわしい力も、そして気質も備わってる。
 それをもっと大勢のために使ってくださいよ。あんたの国はこの小さな城だけじゃあないんだ」
息を吐ききったあとの沈黙が、その場に落ちる。
使嗾というよりも懇願、懇願というよりも理想を叩きつけるような言葉は、正面からルースにぶつけられた。
小さな空白が生まれる。
ラノマは顔を上げると、言いたいことはそれだけだとでもいうように踵を返し、堂々と執務室を出て行った。
半ば呆気に取られていたルースは、部屋の空気が戻ると深く息をつく。前髪をかき上げ、窓辺にいたリグを見やった。
「言いたい放題だが……耳に痛いな」
確かに彼は、この城と荒野さえ守って大人しくしていればいいと思っていたのだ。
王に逆らわず許された分を守る。そうして自分の「家族」を守る。
―――― だがそれは、王族として義務の放棄でもあったのだろうか。
ルースは椅子の背もたれに寄りかかった。傍に来たリグの頭を撫でる。
「お前は覚えているか? よくフィオナが言っていた。『みんなが幸せなら一番』と」
どのような場所にあっても、どれほどの苦境でも笑っていた少女。
彼女はこの城に生きる人々を「家族」と思って、その幸せを望んでいた。
だから誰よりも彼女の家族であったルースは彼女を失った後、その望みを叶えることを第一と思っていたのかもしれない。
復讐の念に駆られて仕方なかったのは、たった三年間だ。その三年を乗り越えた後、彼は憎悪を別のもので塗り替えることを望んだ。
だが「みんな」とは、おそらくその人間によって意味する範囲が異なるのであろう。ラノマはそれをこの国の民全てにしろと言っているのだ。
理想にも過ぎる、大きすぎる話だ。
そう簡単には諾と言えない話に、ルースは考え込む。
時が止まって感じられる時間。寄り添った黒豹はその姿を無言でじっと見上げていた。






窓から見える月はいつもとまったく変わりがない。
澄んだ夜空に縫いとめられているかのようなそれを、ルースは広い寝台から見上げていた。左手を伸ばし女の黒髪を梳く。
「リグ」
「はい」
「昼のラノマの話、聞いていたか?」
「聞いてましたよ」
うつ伏せになっていた女は顔を上げる。肘を突いて顎を支え、男を見つめた。黒い瞳に月光が映りこむ。
理知的な双眸は一時間前までの艶めいた表情とはまったく異なる。
月がその形を変えるように様相を変える女の髪を、ルースは苦笑して引いた。
「彼の言いたいことはもっともだと、私は思いますよ。
 王族とは民の上に立つ者ではありますが、同時に民への奉仕者でもありますから。
 充分な役割を果たしていないのなら、それを交代することはやむを得ません。
 王族の中により適任者がいるというのなら、そちらと代わるのが無難でしょう」
思っていたよりずっと冷静な女の意見にルースは目を瞠った。視線を傾け彼女に返す。
「だがそれが俺か? 無理が大きければ犠牲も増える。
 西の方には民の代表者が政の主導を取っている国もあるというのに、乱暴すぎやしないか」
「民に政を任せられるのは富んだ国だけですよ。
 確かに民意は反映しやすいでしょうが、その分実行まで迂遠になりますし、利害が多方面に迷走しやすいです。
 第一民衆の中に充分な教育を受けている者が一定数以上いなければ、見識が足らずにより悲惨な状況になることだってあります。
 王制はその分、政についての教育を王族に絞って執務の専門家を育てているんですから。本来優れた政を敷くことが当然なんですよ。
 なのに充分な働きが出来ないのなら、費やした資源と時間の無駄にしかなりませんね。それは王を入れ替えたくもなります」
「……お前は面白いことを言うな」
王族を基本的には「贅沢に育てられた政治の専門家」と見ているらしい彼女に、ルースは軽く驚きつつも笑った。
確かに奴隷の母親から生まれた彼は、血の高貴さや王家というだけで尊重される考え方に懐疑的だが、それでも彼女ほど実務的な考え方はしていない。
むしろ彼は王族を「精神」だと思っているのだ。人々の生活を守るという義務を負い続ける精神。
そして、だからこそルースはラノマの言に迷うのである。自分は果たして生まれた時に負った義務を充分に果たしているのかと。
「あとは、短期間での改革はやはり優れた個人の主導によった方がやりやすいです。その点貴方は元々王族で話が早いですね」
「まだ他に兄がいる。俺と違って忌まれていない兄が」
「それはそうでしょうけど」
リグは寝台に両手をついて躰を起こした。白い肌の上を漆黒の髪が滑っていく。
綺麗に出来すぎていて今なお非現実を感じさせる女の姿を、ルースはまじまじと眺めた。
彼女は掛布を引いて体を隠すと、男の視線に気付いて小首を傾ぐ。
「お前、今何歳なんだ?」
「何ですか急に」
「いや。俺のところに来た時は仔豹だっただろう? あれから十六年か? もうちょっと年上に見えるが」
たおやかな肢体を持つ彼女は、ルースの見立てでは二十歳前後といったところだろう。
そうなると豹にされたのは四歳の時なのだろうか。
だがそれにしては、仕草も思考も洗練されている気がする。持論はともかく、振る舞いはまさか男の彼から見よう見真似で覚えたとは思えない。ルースは密かに気になっている彼女の真の素性を探るように、視線をリグの上に走らせた。
しかし女はその問いに微苦笑しただけである。
「秘密ですよ。『リグ』は十六歳、それでいいじゃないですか」
「若作りと言うんだ、そういうのは」
「噛み付きますよ」
リグは彼の手を取って真珠のような歯を見せたが、ルースが笑うとその甲に口付けただけで手を放した。
彼は女の躰を腕の中に引き寄せる。リグは瞬間けぶる睫毛の下で淋しげな目をしたが、すぐに瞳を閉ざした。
「理想を言えばきりがないんですよ。でも、あの人の気持ちは分かります。
 貴方を見ていると欲が出る―――― もしかして理想に近い現実を得られるんじゃないかって期待してしまうんです。
 勝手な願いとは重々分かってはいるんですが……」
「俺はそこまで優れているわけではないな。未熟過ぎて自分でも呆れるくらいだ」
ルースの苦笑は自嘲的なものではなく、偽らざる本音であった。
リグはそれに気付いたのか躰をよじって彼を見上げる。
闇色の瞳。その表面に霧のような翳がかかった。深すぎて見通せない夜に、男の視線は引き寄せられる。
「本当に、ごめんなさい」
「何だ急に」
「ごめんなさい」
白い腕が首に巻きついてくる。
そうして彼の胸に顔を埋めるリグをルースは訝しく思いながらも抱き締めた。すすり泣きに似た小さな呟きが聞こえる。
「ごめんなさい……もう少しだけ傍に……」
「気にしないでずっといろ」
力強い男の声に、彼女は答えない。
ただ温もりを求めるように躰を重ねて、そうして女は深い息をついたのである。