縫われた夜 12

禁転載

時が止まっているようだ。
それは「彼女」を知った時からうっすらと感じていることである。ルースは隣で眠る女を見下ろした。
豹であった彼女と長く一緒にいた為であろうか、言葉と体を重ねるようになってからほんの数日であるというのに、この関係がまるでずっと昔から続いてきたようにさえ感じられる。
長い間連れ添ってきたような安堵感。
ただその感覚はよくよく考えてみれば、無理もないことであるのだろう。
常に彼の側にいた影。その関係性が少し変わったというだけのことなのだ。事実彼女は夜にしか女にならない。
「リグ」
名を呼んで、頭を撫でる。
つまりはそれだけのことだ。ルースは愛しさをこめて女の肩に口付ける。
だが眠りの浅い彼女はそれだけで目が覚めてしまったらしい。黒い瞳を薄く開いて彼を見上げた。
「ルース……」
「何だ。寝てていいぞ」
彼は微笑して彼女の髪を撫でたが、リグは少しも笑わなかった。闇の深淵が男を見つめる。
「ルース、もうすぐ手紙がきます」
「手紙?」
「時間が……」
女はそこで再び目を閉じた。疲れ果てたかのように寝台に沈みこむ。再び寝息を立て始める彼女をルースはまじまじと注視した。
「寝言か?」
問おうにも当の本人は眠ってしまっている。
ルースは苦笑して女の肩に掛布を掛けると、その華奢な体を抱きこんで目を閉じた。






ウィリディス城の執務室には余分なものは何もない。
城の主人であるルースの机と、部下たちが作業に使う机が一つずつ置いてあるだけだ。あとは書類棚と出窓しかない。
その出窓に寝そべっているリグに向かって、手の空いたルースは羽箒を振っていた。誘うように羽の先を上下させる。
「リグ、ほらほら」
男の声に、黒い豹は僅かに顔を上げただけで横を向いてしまった。つれない態度にルースは残念そうな顔になる。
前はこれをやってやると目を輝かせてじゃれついてきたものだが、今の彼女は興味がないらしい。
彼は羽箒をしまうと机に頬杖をつく。
「さて、どうするかな」
何となく口をついて出た言葉は、彼自身無意識のうちに発したものであった。
己の発言を聞いてルースは改めて考え込む。
今現在、彼と王の関係がよくないのは、半ば一方的に王が彼を嫌っている為だが、それに対して反旗を翻すことが正しいのかどうか、どうしてもふんぎりがつかない。復讐心に駆られていた十年近く前であれば、もっと簡単に決心をつけられただろうが、自分だけのことではない。私怨でことを起こすのはやはり違うだろう。
そう考えると決断に迫られつつあるのが「今」でよかったのかもしれない。ルースは寝そべる豹の毛並みを眺めた。
言葉なく思考だけが動くひととき。だがそんなぼんやりした時間も、扉を叩く大きな音で中断される。
「どうした。入って来い」
この叩き方からして危急事かもしれない。
そう思って入室を促したルースは、駆け入ってきた部下の話を聞いてさすがに唖然となる。
王からの先手とも言える一手―――― それはルースに「北部国境へ異動し、隣国との戦闘の指揮を執れ」と命じるものであった。

「やられたな」
王からの書簡を読み終わると、ルースはそれだけを感想として述べた。開いたままの手紙を机の上に投げ出し、側近たちにも目を通すよう示す。
正式に使者を立ててもたらされた命令は、今までの蟠りを捨て腹違いの弟を抜擢しようなどというものではないことは明らかだ。
むしろ王からすれば「敵同士をぶつける」に等しい方策だろう。
その証拠にウィリディス城の部下は全て残し、ルースは一人で北部砦に着任するよう、書簡には書かれている。
彼と、彼の武力を引き離そうとするこの命令に、側近たちはみな怒気を顕にした。
最後に書簡を手に取ったラノマは、それを丸めたそうな表情で机の上に戻す。
「こんなの言うこと聞くこたぁないですよ。殿下を無力化させて捨て駒にしようっていうのが見え見えですし」
「だが、聞かなければ聞かないで王の命令に反したとして処罰を受けるだろう。どちらに転んでも王に損はないというわけだ」
忌々しさを噛み潰したかのようなイルドの指摘に、一同は苦い顔になった。
嫌悪感が着実に水位を上げていく中、ルースはもう一度書簡を取り上げる。
この書簡によって先手を打たれてしまったことはもはや決定的である。
これでルースに残された逡巡の時間は僅かになってしまったのだ。少しずつ時間をかけて味方を増やしていくという手段はもう使えない。
王に従うか反するか―――― その決断はまもなく皆が知ることになるだろう。
そうなるしかない。既に彼は岐路に立たされているのだ。
思考の海に漂う主人にヴァーノンが躊躇いながらも言をかける。
「この城の後任に誰が当てられるにしろ、今の状況を維持出来るとは思えません。
 これはおそらく我々をも同時に排除しようとの動きなのでしょう。命令を受諾していいことがあるとは思いません」
「しかし今、王都軍と戦うのはきつい。あちらには砲撃兵器もあるでしょうし」
ここ二百年ほどで急激に発達してきた火薬を使用する砲撃兵器は、しかしまだ全ての軍に潤沢に浸透している訳ではない。
製造には費用がかかり、運搬、整備などの扱いや手入れも面倒とあって、王都軍など大規模な軍に少数配備されているのみだ。
動きが鈍重である代わりに遠距離かつ高威力の攻撃が出来る砲撃兵器は、今のところそれらを持たない軍からは戦況を容易く変えてしまう新兵器として忌み嫌われているが、ほぼ騎兵のみで構成されるウィリディス城の軍に対しては、機動力の差からそれほどの効果を発揮しない。
だがそれも、お互い同程度の兵数で戦場に布陣し戦う場合の話であって、圧倒的な兵力差を盾に包囲後の攻城戦に持ち込まれれば、城壁自体が砲撃によって破壊されてしまうことは火を見るよりも明らかだった。
ラノマが苛立たしげに舌打をする。
「内容を聞くより先に使者を殺しちまえばよかったのに」
「そんなことが出来るか、国王の勅使だぞ」
「死体を完全に処分して、賊にでもやられたことにすればよかったんだよ。何だって素直に使者を帰したりしたんだ」
どちらも選べない選択を迫られた彼らはそれぞれ、見通しの悪い未来に思考を走らせた。
そんな中ルースは「少し考える」と話を締めくくると、椅子の背に体を預け天井を見上げたのである。






リグが姿を変じるのは、残照さえもすっかり消えうせた後、月が青い空を照らし始める頃だ。
この夜もそうして寝台で人に戻った彼女に、ルースは黒い絹服を差し出した。驚く彼女に着てみるよう示す。
装飾は少ないが、質のよい生地で出来た衣装は、彼女の髪と目の色にあわせたものだ。
ルースは背中の小さな鉤を留めてやると、前に回ってリグの姿を満足そうに見定める。
「急ごしらえだが、ちょうどいいようだな」
「というか、ぴったりです。どうしてこんなにぴったりなんですか?」
まるで採寸したかのように細い体に沿うドレスにリグは呆れ顔になったが、細かい注文を出した男は笑っただけで答えない。
ルースは酒瓶と盃を二つ出してくると、手ずから自分の分と彼女の分、銀の盃に酒を注いだ。テーブルに向かい合って座ると、女に盃を勧める。
「飲めるんだろう?」
「飲めますけど」
「なら飲め。一度お前とこうしてみたかった」
年月の深みを感じさせる味。二年前、城を訪れた隊商から捧げられた一瓶を、二人はしばし無言で味わった。
椅子に腰掛けた女の白と黒。妖艶とも清冽ともつかぬ彼女の貌をルースはただ眺める。
「お前は、俺が北に行くといったらついて来るか?」
「豹をつれて来てはいけないと、記されていませんでしたからね」
当然のように答える彼女に男は笑った。断たれない絆と感情。ほろ苦さがくすんだ赤色の酒の中へと落ちていく。
「だが、俺が死んだらお前も危ない」
「死ぬつもりがあるのですか?」
「殺すつもりがある奴はいるだろうな」
盃を空けると、彼はそれをテーブルへと置く。木と銀が触れ合う固い音が、暗い部屋でやけに響いた。
男の視線は空の酒盃の上を行き過ぎ、美貌の女へと注がれる。
「リグ、お前はここに残れ。後のことはネズとヴァーノンに頼む」
「何を……」
「今、無理に王に反しても何も出来ずに叩き潰されるのがおちだ。だったら少しでも可能性がある方を俺は選ぶ」
謀殺される可能性は高い。
だがそれは、反乱を起こして城ごと蹂躙されるよりも、希望が拾える選択だろう。
どのような環境でも生き抜いて好機を待つ。それはルースがこの十数年ずっとやってきたことなのだ。
リグは闇色の目に険しさを湛える。感情を抑えた声が小さな唇を滑りでた。
「それと私を残していくことにどういう関係が?」
「お前を死なせたくない」
―――― 彼女は、ルースが初めて持った「特定の女」だ。
ずっと傍に置いておきたいと思った女。そして奇しくも昼は豹の姿を取っていることで、彼女は刺客の目から逃れられている。
だがそれもこの城にあっての話だ。北へ異動すればどうなるか分からない。
毒姫の件を考えても、ルースが危険な状況にあってリグが無事で済むとは限らないだろう。そのような事態はどうしても避けたいのだ。
女は何を考えているのか、ただ沈黙している。
月光に映える肌、蒼白く繊細な姿を、ルースは穏やかな愛情を込めて見つめた。手招きをするとリグは向かい合わせに膝の上に乗ってくる。
軽く触れるだけの口付けを交わし、彼は女の頭を撫でた。
「その前にリグ、お前はどうすれば完全な人間に戻れるんだ?」
「何ですか急に」
「出来るなら離れる前に、日の光の下でお前を見てみたい」
それは紛れもなく本音で、だが方便の一つだ。
夜にだけ咲く花。その彼女を日の下にも連れ出したい。
自分の隣にいるならば危険を呼び込むことにしかならない変化を、だがルースは彼女に触れるうちに欲として抱き始めていたのだ。
月下でのみ解放される女に、常なる自由を与えたい―――― その度し難い欲も彼女を手放すのなら叶えられるだろう。
そして何より、ルースはリグに「何か」を返したかった。
今まで貰ったものに少しでも足るように、彼女に何かを贈りたい。
或いはその「何か」とは魔術の打破ではないかと、彼は考えていた。
「リグ」
大きな手が女の頬に触れる。彼女はその手の上に自分の白い手を添えると目を閉じた。
「リグ、どうすれば戻るんだ?」
「ルース」
彼女の声はこの時、とても遠くから響いているように聞こえた。
清んでいながらも底の見えない海。それは、夜に広がるのであれば当然のことだ。答を待つ男の耳に、彼女は唇を寄せ囁く。
「ルース、もう少し待って下さい」
「待つ? 何をだ」
「時を」
リグは顔を離すと鮮やかな笑顔を見せた。少女の如き嬉しそうな顔。それはまるで何にも束縛されていないようにも見える。
魔術のことなど気にするなとでもいうのだろうか。
ルースは彼女の答に眉を顰めかけたが、すぐにかぶりを振った。苛立ちの萌芽さえ追い出して女の髪を撫でる。
別れが間近に迫っているのなら、彼女を責めることはしたくない。与えたいものはもっと別のものだ。
男は彼女を抱き上げると白い額に口付けた。
限られた時を分かち合う行為。
だがこの時ルースは、「彼女」を知って今が何日目の夜であるのか、はっきりと思い出せなかったのである。