縫われた夜 13

禁転載

夢を見なくなった。
或いはそれは単に覚えていないだけなのかもしれないが、起きた時、彼の記憶に何も残っていないことは確かである。
ルースは寝台から体を起こすと辺りを見回す。
違和感を覚えたのは、まだ夜が明けていないにもかかわらず、傍らに女の姿が見えなかった為だ。
「リグ?」
名を呼んでみるが、広い部屋に動くものは見えない。
ルースは訝しく思いながら服を手に取ると、彼女を探す為に部屋を出た。






追われる人生を送っている、との認識は認めたくはないがやはり事実であろう。
王の戯れによって生まれたルースは、生まれてから最初の十数年を王宮の片隅で過ごした。
詰め込まれる学と武、そしてそれらの隙間を縫ってくる中傷や嫌がらせ。
子供であった彼は母の立場を守る為、休む間もなく追われるような日々を過ごしていたものだ。
だがその母も、父の死と共に死んだ。
悲しかったが、悲しむものではないということも分かっていた。
リサイでは王が死んだ時、寵姫が一人共に葬られる。
その寵姫に母が選ばれたのは、彼女の立場の弱さの為であったろうが、彼女はむしろそれを喜んでいた。
残していく息子へしきりに謝って、それでも母は笑顔で毒杯をあおったのだ。
その笑顔が偽りではないと分かったからこそ、ルースは母の死に納得した。

そして続く十数年もまた、ルースは追われる人生を送っている。
彼に出来ることはただ、限られた選択肢の中でもっともましなものを選ぶことと、全てを投げて諦めてしまわないことだけだ。
望んで踏み出して選び取った道ではない。
多くの人間がそうして不自由な中でささやかな自由を守るように、彼も最低限自分の手の届く範囲だけを守ってきたのだ。
まもなくやって来るであろう新しい転機。
またも追われてその中へ飛び込んだ後は、何を見ることになるのだろう。
ルースはぼんやりと思考しながら夜の城を歩いていく。



彼がリグの姿を見つけられたのは偶然ではない。
頭の片隅で「ノイディアには連絡しないで欲しい」と懇願してきた女の言葉を覚えていたからだ。
まさか、と思いながらノイディアの人間たちを入れた部屋の方を探しに行ったルースは、そのうちの一室の前に彼女の姿を見出し、顔を顰めた。鍵を開けているリグに背後から近づくと、その肩を無言で掴み、体ごと近くの壁に押し付ける。
「何をしている」
「ル、ルース」
「ここで何をしていると聞いているんだ。俺が寝ている間に何をやっている」
鋭い言葉に怒気を感じ取ったのか、彼女は少し蒼ざめた。動揺する闇色の瞳をルースは睨む。
「服を作ってやったと思ったらこれか。自由にしたいのなら俺がいなくなるまで待てばいいものを……」
「違います、これは」
「なら中の男に何の用がある?」
押さえつけられている肩が痛むのか、女は眉を寄せた。だがそれが分かっても力を緩めることが出来ない。
ルースは自分が御しがたい怒りに駆られていると気付くと舌打ちして一歩退いた。彼女の肩を掴んでいた手で額を押さえる。
―――― 初めて人に変じた彼女を目にした時も、「リグ」に対する信頼は揺るがなかった。
その存在を、親愛を、疑ったりはしなかったのだ。彼は「リグ」をそういうものとして受け入れた。
しかし今、ルースはその信頼が脆く崩れ去ったかのように、彼女に対して苛立ちを抱いている。
己の内を焼く感情が一体何であるのか。思い当たった彼は自嘲ぎみに溜息をついた。

これはおそらく「嫉妬」だ。
隠れて別の男のところへ行こうとした彼女。その彼女の行為に裏切りを見て憤っている。
つい数時間前は彼女の命を優先して城に残そうと思っていたにもかかわらず、その彼女が別の人間に寄ろうとしているのを見てルースは感情を抑えきれなくなってしまったのだ。

まったく度し難い有様で、分かってみれば自分でも呆れてしまう。ルースは片手で顔を覆うと波打つ精神を落ち着けようと試みた。
「ルース……」
「少し黙ってろ」
リグが豹のままであった頃にはこのような感情は抱かなかった。むしろその自由を尊んで、好きなようにさせていたのだ。
だが今、彼女にそれを許せないということは、すなわり「リグ」に抱く感情が変わってしまったということであるのだろう。
昔からの変わらぬ愛情を人である彼女にもまた抱いているのだと、ルースは思っていた。
しかしそれは真ではないのだ。今の彼女はルースにとって「女」に他ならない。おそらくは初めてその姿を知った時から強く惹かれ続けている。
「リグ、来い」
手を伸ばすと、彼女は大人しくルースの腕の中に収まった。
しなやかな温度。焦げ付くような感情を呼び起こす存在に、ルースは肺の中の空気を吐き出す。
「……悪い。かっとなった」
その思考、姿、淋しげな目、嬉しそうな笑顔、捧げられる温かさ。
全てはただ彼にだけ向けられるもので、その一つ一つがひどく貴重なものに思える。
女として彼の前に立った彼女を、彼は男として愛しているのだ。それに気付いたルースはほろ苦さをこめてリグを見つめた。
「参った。女に惚れたのは初めてだ」
「それは私が『リグ』だから、ですか?」
「お前がお前だから、だろうな」
率直に返すと、リグは少しだけ顔を赤らめて俯く。稚さを感じさせる反応。愛らしい姿を見て男は腕に込める力を強めた。
彼女を手放したくない。ずっと傍に留めおきたいと願ってしまう。―――― 叶うなら危険を冒してでも。
「まったく……欲をかきたくなってくる」
「北に行かなければいいんですよ」
「無茶を言うな」
「無茶じゃないです」
リグは体を捻って彼の腕から脱すると背後を見た。その時、まるで示し合わせたかのように扉が開く。
そういえば彼女は鍵を外していたのだと、ルースが思い出した時、戸口には一人の男が現れた。
あのやけに好戦的な少女を留めていた男―― 武人らしい鍛えられた体を持つ男は、廊下に立つ二人に気付くと目を見開く。
灰色の瞳が女を捉え、そのまま固まってしまった。
「まさか……アルタ・ディティアタ?」
聞き覚えのない単語。ルースは怪訝に思って首を傾けた。
男の視線は真っ直ぐにリグを向いている。
掠れた問いに、彼女は驚くことなく無言で頷いた。彼は雷に打たれたように立ち尽くす。
「どういうことだ?」
ただならぬ事情があるらしき二人の様子を見て、ルースはリグを抱き寄せながら問うた。
腰に手を回された彼女は苦笑して男を見上げる。
「つまり私は元々、ノイディアの生まれなんですよ」
「―――― は?」
山に囲まれた国、青い森を持つ神秘の国。
隣国でありながらその全貌が知れぬ国のことを、こうしてルースは意外な切っ掛けで知ることになったのである。






「アルタ・ディティアタ」
それはノイディアにおいて、魔術を操り神の言葉を伝える預言者を意味している。
基本的には世襲制の神官職とされているが、実際のところは魔術の力を保つ為、外からの養子も多く迎え入れられているらしい。
中でも「彼女」の母親は西の大陸から渡ってきた人間で、強い力を持っていたのだという。
その母親が神官である男に娶られて生まれたのが「彼女」だ。
ルースは目の前で丸くなっている豹の背中を撫でる。
「シェライーデ」
それが彼女の本当の名前なのだという。本来ならば父の後を継いで神職となっているはずの娘。
その彼女が何故豹になってリサイにいるのか、ルースは問い質したが、はっきりとした答は返してもらえなかった。
ただそこには彼女自身の力と、今現在ノイディアを支配している男が関わっているらしい。彼はノイディアから来た男の言葉を思い出す。

「元々ノイディアは、王とアルタ・ディティアタによって治められる国なのです。
 アルタ・ディティアタが神の言葉を聞き、与えられた言を王に伝え統治が為されます。
 それら預言はほとんどが天候に関するものですが、民が抱く神職への信頼は篤く、政以外でも大きな影響力を持っているのです。
 しかし大貴族の一人であり、古き信仰を批判していたルクサはこの体制が気に入らなかったのでしょう。
 ある日王の甥をそそのかして陛下を弑逆し、子飼いの者たちを使って城を支配すると、あっという間に国の実権を握ってしまいました」
それは皮肉を込めていうならば、リグが言っていた「有能な個人による短期間の改革」にあたるのだろう。
ルクサは城を支配すると同時に、神職とその周囲の人間たちをも襲い、完全に無力化させた。
そして城からからくも逃れた武官や文官に追っ手を出し、それを何とか振り切った人間たちが、ウィリディス城に現在滞在している人間たちであるというのだ。
事情を話終わった男は自分が武官であることを告げると、怪我が治り次第ノイディアに帰ると話を締めくくった。
「帰ってどうするんだ? 捕まるだけじゃないのか」
「ノイディアも体制が綺麗に入れ替わったわけではないのです。
 傀儡の王甥が暴虐をふるっているため、民は怯えて暮らしておりますし、国の南方にはまだルクサの手が及んでいない砦があります。
 そこに残る軍と合流して王都を奪還出来れば元の平穏が取り戻せるでしょう。それには王都の土地勘がある我らがいた方がいいのですが……」
追っ手に追い回されたことで、南方に向かっていた彼らは南東の山を下り、リサイとの国境を越える羽目になった。
運良く今はウィリディス城に保護される形となっているが、本音を言うなら一刻も早く国内に戻りたい。
だがそれには山を越える体力を取り戻さなければならないのだ―――― そんな煩悶を見せる男を前に、リグはルースを見上げた。
「ルース、考えるに値しないというのなら怒ってくださって結構です。
 ですが私はやはり、祖国が大事ですし、今回のことは黙っていられません。
 そこで貴方に提案します。
 ―――― もし、この南西国境で国同士の戦闘が起こったなら。
 それでも王は貴方を、ここから引き剥がそうとするでしょうか?」
絡み合った命運を皮肉るような黒い瞳が彼を見つめる。
そして彼女の意図するところを理解したルースは、思いもよらぬ第三の道に瞠目すると、改めて己の選択を考え直すことになったのだ。