約束 16

禁転載

国境を越えた辺りから、荒野は徐々に色を変えだす。
ルースは初めて足を踏み入れる他国を前に、様相の違う景色に度々視線を引かれていた。西の方に聳え立つ青い山々を見上げ、鞍の背後に声をかける。
「シェライーデ、懐かしいか?」
豹はその問いに喉を鳴らす音で応えた。背中にとんとんと頭をぶつけられ、ルースは笑い出す。
今はなだらかな斜面となっている道も、やがて本格的に山へと分け入っていくはずだ。
その先に待っているものを目指して、五百騎の兵は迅速に道の上を駆けていく。
ノイディアも、リサイ本国も、まだ誰もこの動きに気付いている者はいないであろう。ルースは先導の馬を駆るタウトスの背を見やった。
広い街道は視界のずっと先で三叉路になっており、そのうちの一本が緩やかに街道をはずれ左へと曲がっている。
「さて、どうなるかな」
ルースの述懐を受けて、鞍に伏せている豹が小さく鳴いた。
だがその声も馬蹄の音にかき消され―――― まもなく街道上からは、一騎残らず彼らの姿は窺い知れなくなったのである。






問題の石門はルースが思い描いていたよりずっと国境に近い場所にあった。
かなりの速度で進んだとは言え、二日目の朝には門の近くに到着したウィリディス軍は、ひとまず比較的傾斜が緩い場所で行軍を停止し、馬を休ませた。斥候を石門に向かわせながら、ルースはタウトスを相手にしみじみとした声をかける。
「こんな場所に門があったんだな。知らなかった」
「元は他国への侵攻用に道を拓き、門を作ったそうです。周囲の斜面がほぼ垂直な場所を選んでそこに巨大な門扉を置いたとか」
「なるほど。外からは開けない門なら見つけてもどうしようもないだろうしな。だったら国境に近い方が素早い侵攻をかけられるというわけか」
納得の声を上げるルースにタウトスは曖昧な微笑で返す。
「もっとも、これを作らせた当時は完成直後に国内で疫病が流行り、それどころではなくなってしまったのです。
 そうしている間に平野は『イクズシアの砂』で荒廃し……」
「荒野になってしまったというわけか。確かにあそこをノイディア人が行軍するのはつらいだろうな」
荒野の只中にぽつんと在る城の主人は皮肉げに笑う。
現在ウィリディス城においては井戸が掘られ水が入手出来るが、荒野になったばかりの頃は本当に何もない、乾いて暑い風砂の大地が広がるのみであっただろう。標高が高く涼しい土地に住むノイディア人には、その環境自体が敵に思えたに違いない。
タウトスは苦笑すると額に滲む汗を手の甲で拭った。
「それでも石門を作らせた王は侵攻を主張したそうなのですが、当時のアルタ・ディティアタが反対し、計画は白紙に戻されたそうです」
「随分神職に力があったんだな」
「昔の話ですから……」
宙を彷徨う男の視線が、ルースに寄り添う豹を捉える。
走る馬の背に乗り続けていたせいか、リグはべったりと地面に伏せ半ば眠っているようであった。
ルースがその視線に気付くとタウトスはぎこちない笑みを見せる。
「今のアルタ・ディティアタは歴代でも抜きん出た力をお持ちです。
 幼い頃から天候予測だけではなく、様々な術を操ることに長けていらっしゃった。
 そのお力に心身共に救われた人間は多いと聞きます」
「今は豹だけどな」
言いながらルースが黒い背をぽんぽん叩くと、リグは尻尾だけ動かしてその手を払った。
くねる尻尾を掴もうとする男を、タウトスは反応に困って眺める。
やがて斥候が戻り、その情報が伝えられた。
迂回は不可能であるということと、敵兵が約三百配備されていることが報告されると、予想通りの内容にルースは頷く。
「門が壊れてるって具体的にはどんな感じなんだ?」
「それが……何かがが近くで爆発したようになっておりました。砲撃兵器の取り扱いでも誤ったのかもしれません。
 門扉は残っておらず、大きな穴が空いている、という状態でしょうか」
「直そうとしなかったのか」
「木材が運び込まれておりました。あるいは応急処置をする気なのかもしれません」
「なら急がないとな」
穴を塞がれては攻めるにも面倒になる。ルースは部下に指示を出すと、自らも動く為その場を立ち上がった。



石門へ向かう道は左右にくねる坂となっている。
それは急な斜面を切り拓いた為の処置であろうが、必然的に下方に布陣することになる彼らにとって、戦いにくいことは確かであった。
そのような中、木々が沿う坂を十騎が先行して上がっていく。
まだ脇腹の怪我が治りきっていないタウトスは、しかしそれをまったく窺わせない表情で馬を駆っていた。
門が見えてくると、彼は後ろに続く仲間たちに向かって手を挙げる。馬足を緩め、坂の途中で手綱を引いた。
ノイディアの王都から逃れ出た彼らのことは、この場に配備された兵にも知らされているらしい。
むしろ彼らと砦を連絡させない為にここにこれだけの兵が置かれているのではないかとも考えられるほどだ。
案の定、石門の上に立っていた見張りの兵はすぐ彼らに気付いて大声を上げた。
まもなく大きな穴が開けられた石門の影から、十数騎の追っ手がタウトスたちに向かって馬を駆ってくる。
「よし、手筈どおりいくぞ」
剣を抜いたタウトスは応戦する意を見せつつ、いざ追っ手が迫ってくると馬首を巡らせた。ぎりぎりの距離で坂道を下りていく。
ルクサの兵たちは彼らが逃げ出すと、強気になってその後を追い始めた。石門からみるみるうちに遠ざかり、やがて最初の湾曲部へと差し掛かる。
まるで逃げ惑う兎を追うような嗜虐でかつての武官たちを追い詰めていく彼らは、道が緩やかに曲がった先で突然止まった標的に驚いたに違いない。
そして彼らは、その後ろにいるウィリディスの兵を見て、飲み込めぬ状況を飲み込む為の努力をしなければならなくなったのだ。
「馬鹿な……どこの兵だ……」
「この国の人間ではないな」
快活に笑って答えると、ルースは右手を振った。
それを合図に青い森に囲まれた山道では、唐突な戦闘が始まったのである。



飛び散る血の飛沫は球となり、落ちかけた日を反射して煌く。
苦悶の呻き声がそこかしこで聞こえ、踏み躙られる骨肉の音がそれらを散らした。
ルースは正面から突き込まれた斧槍を剣で弾くと、敵兵の肩口に白刃を振り下ろす。
返り血がかかった馬は頭を軽く震わせたが、主人が横腹を蹴るとそれに応えて前へと進んだ。
絶え間ない剣戟の音。それらがなり響く戦場となっている場所は、石門付近の坂道ではない。もっと国境に近い平野だ。
初めの接触時にあえて何人かを逃がしたルースは、その人間たちが部隊に報告するのを待って、やって来た本隊を巧みにここまで誘い出したのである。
空は赤く染まりつつある。探せば白い月が既に出ているのかもしれない。
ルースは「彼女の時間」になりつつある周囲を見回し戦況を確かめた。指示を出す時を見計らう。
その時、彼の眼前に一人の騎馬兵が飛び込んできた。
ぎらぎらと戦意に目を輝かせてルースを睨む男は、武装からして隊長格の人間であろう。憎憎しげな声を絞り出す。
「何故リサイが……今まで狡猾に隙を探していたというわけか?」
「隙を見せるようなやり方をしたのはそっちだろう」
「黙れ!」
打ち込まれる斬撃を、ルースは剣で外側に流す。続いて二合目を正面から受けた。
ノイディアの兵士は歯軋りしてそのまま剣を押し込もうとする。
「荒野に住む者はそれらしく死肉でも漁っていればいいのだ! 我らの国に関わるな!」
「そう言われてもな。―――― アルタ・ディティアタが力を貸して欲しいと言った」
その称号は、男の表情を一瞬で奇妙に歪ませた。
力が緩んだ隙を狙ってルースは相手の剣を弾くと、一閃のもとに男を馬上から斬り落とす。
声もなく血に落ちる体。瞼に飛び散った血を手で拭い、荒野の主人は皮肉な目を物言わぬ男に向けた。
「あとは単純に、俺自身の為だな」
問いに答える行為に意味はない。
ルースは落ちていく日を見上げると、勝敗がほぼ決した戦場を確認し、残敵の掃討と帰還を命じたのだった。






石門に配備されていた兵を排除すると、一行はウィリディス城に帰る者と砦に向かう者の二手に分けられた。
ルースはリグを連れて城に戻ると、王都からまもなくやって来るであろう使者に対し準備を整える。
ノイディアの政変とその後の小競り合い―――― その知らせにリサイの王がどれほど驚くか、ルースは苦笑しか洩らすことが出来なかった。
夜の執務室で側近たちと書類を広げていた彼は、頬杖をついて王都からの情報を眺める。
「王はともかく他の兄上たちがどうでるかだな」
「ラノマが煩く申していましたよ。ペール殿下に気をつけろと」
「ふむ……」
今はタウトスと共にノイディアの砦に向かっている部下。常に飄々としている男の名を聞くと、ルースは思案顔になった。
普段は軽薄で無茶なところの多いラノマだが、あれで頭が切れ勘もいいのだ。
彼が「気をつけろ」というなら何かがあるのだろう。ルースは窓辺に立っている女に問いかけた。
「ペールか。懐かしいな。覚えてるか、シェライーデ?」
「え……。すみません、全然覚えていません」
「まぁそうか。お前あの頃仔豹だったものな」
一連の会話のおかしさに、執務室内に沈黙が流れる。
必死でそれに気付くまいとしている部下たちを無視して、ルースは手配を済ませていった。
疲れているのか少し顔色の悪いシェライーデに気付くと彼は「先に帰っていていいぞ」と付け加える。
「あ、いいんですか? すみません」
「寝てていいからな。何か伝言があったら書いておけ」
「分かりました」
彼女の姿が執務室から消えるとヴァーノンは力が抜けたような顔になった。僅かな逡巡を見せ、しかしぽつりと呟く。
「何というか……危うい方ですね」
「危うい? シェライーデがか?」
「魔術に関わる方だからでしょうか。まるで……そう、普通の人ではないような」
「ああ。そうかもしれんな」
部下の感想にルースは苦笑した。
確かに昼夜で姿が違う上、他国の神職だという彼女は、他の人間からすれば得体の知れない存在に見えるだろう。
そんな女を恋人としている男はヴァーノンの言葉を咎めることなく笑って流す。

仕事を終えたルースは中庭に面した回廊を通って、自室へと向かった。
その時、ふと庭の方を見やった彼は―――― 両手に白い花を持って庭の奥に消えていくシェライーデを見て、過ぎ去った時のことを考えたのである。