約束 17

禁転載

「まさか、こんなことが……」
「疑うのなら調べてみればいい。なんなら王都に持ち帰れるよう塩漬けの瓶を用意しようか?」
ルースが言い放つと王の使者は蒼ざめた顔で僅かに後ずさった。腐敗臭を漂わせる死体の数々から顔を背ける。
ウィリディス城を治める王弟に、王が最後の選択をつきつけてから二十日余り。
突如変わった状況に真偽を見定めに来た使者は、さすがに動揺を隠せないようだった。戦場から回収されたノイディア兵の遺骸を正視せぬよう視線を彷徨わせる。
ここにある死体は一通りの処置は施されているが、王宮内で過ごし戦場など知らぬ人間には堪えるものがあるのだろう。
ルースはあえて穏やかな声音で追い討ちをかけた。
「こちらから陛下に連絡申し上げた通りではあるが、ノイディアでは今、政変が起こっているらしい。
 玉座を簒奪した者はリサイへの侵攻も考えているのだろう。今回は何とか押し返せたが、次は分からない。
 出来れば陛下には増援の軍を手配して頂きたいのだが」
「そ、それは私の一存では」
「そうか。勅命通り俺はここをもう離れねばならぬからな。後のことは任せよう」
使者の顔色は既に蒼白であり、額に冷や汗も滲んできている。
窓のない部屋には死臭が立ちこめており、それが彼の肺の中を生温く満たしているのだ。
男が一刻も早く、敵兵の死体や遺留品を保管しているこの地下室から、逃れでたいと思っていることは明らかであり、だがそれを知っていてルースは階段の前に立ちふさがっていた。平然とした顔を崩さぬ王弟に、苦渋の声で使者は答える。
「陛下は、ノイディア侵攻の話が本当であるなら、ルース殿下にはその対処にあたるようにと……」
「ほう? 陛下がそう仰るのなら勿論従うが。しかし状況をはっきりさせる為に、使者殿には先立っての戦場跡の調査をして頂いた後、
 しばらくこちらに滞在してもらい、戦闘に参加して頂くということも考えているのだが」
「待っ……それには及びません! 陛下にはしかと報告いたします」
「そうか?」
使者が激しく首を縦に振ると、ルースはようやく階段の前からどいた。
急くまいとしながらも足早に地下室を出て行く使者の後を、彼はのんびりと追う。
ルースの後に続く部下たちの何人かは使者の態度に嘲笑を堪えていたが、彼の足下を行く豹はむしろ「やりすぎ」と呆れているようである。
しかしこれでルースにはしばらくの猶予が出来―――― その夜からウィリディス城はノイディアへの遠征の為、本格的に動き出したのだった。






砦に向かった人間たちはそのまま無事到着したらしく、まもなく連絡の兵がウィリディス城に帰って来た。
その中にいたラノマは執務室を訪れると、機嫌のよさそうな笑顔で主人に報告する。
「いや、順調に話が纏まりましたよ。お嬢さんが一筆書いてくれたおかげですね」
「そうか。委任状がなくても通じるもんだな」
「ですよ。もっともあれって封印の紋章で充分意味が通るらしいですよ。迂闊に開けちゃいけないんだとか」
「それは初耳だ。気をつけるか」
肝心の政権委任状はルースが持ったままである。
シェライーデは「それがなくてもエナと私の手紙が揃っていれば話が通じますよ」と保証して彼らを送り出したのだ。
戻ってきたラノマは、ノイディア王都周辺の地図とこれからの予定表を携えていた。
はじめ砦の将軍は他国の人間に地図を渡すことを渋ったらしいのだが、それをタウトスとエナが説得したらしい。
地図には今回の策に必要な要所だけが記されているのみであったが、それをルースに渡すとはやはりシェライーデの存在が大きいのだろう。
ラノマは「将来の主君になるかもしれませんからね」とそれについて揶揄する。
「砦の軍は南から王都を攻めるのか。ならばこちらは東からだな。封鎖されている街道を上ろう」
「合流しない方がやりやすいっすからね。せいぜい引っ掻き回してやりましょう」
今回ルースが担うのは遊撃である。
動かせる兵数から言っても機動力の点からも、それは妥当な役割分担であろう。
王都を封鎖しているルクサ子飼いの軍は、主に南部砦の兵力を用心している。そこへ横合いから殴りつけられれば対応に苦心するに違いない。
シェライーデなどは「負けそうになったら全軍の指揮権をもぎとって行って下さい」などと本気か冗談か分からぬことを言うが、ルースはとりあえず頼まれた分の仕事に徹しようと考えていた。
「もう日もない。そろそろ城に残る人間とノイディアに向かう人間を分けるか」
「あ、俺もちろん戦場行きで。お願いします。是非」
「…………分かった」
人には適材適所というものがあり、ラノマのような人間は後衛に置いておいてもさして役に立たない。
ならば本人の望む役割を果たさせるのが一番だろう。
ルースは一通りの手配を済ませると部屋に戻った。既に日が落ちている時間、寝台には女がまどろんでいる。
「シェライーデ」
そっと名を呼ぶと、彼女は気づいて顔を上げた。ルースを認めて笑顔になる。
「おかえりなさい」
「ラノマが帰って来たぞ。出来れば明後日には出立したいな」
「お手数かけます」
シェライーデは寝台の上に座りなおすと頭を下げた。隣に座ったルースはその頭を軽く撫でる。
「俺自身の為でもあるからな。気にするな」
「ルース」
王からの命を何とかかわせたのはノイディア絡みの騒動のおかげである。
そして今後、王都を奪還しシェライーデが政権を取れば、それに貢献した彼の立場はより安定することになるだろう。
ルースは恋人の黒髪を指に絡めて手元に引く。
「しかし、お前が女王になったら面白そうだな。中身はきついが見栄えはいいし民も喜ぶだろう」
「……誉めてないですよね、それ」
「冗談だ」
窓から見える月はいつも同じ場所から部屋を照らしている。
ルースは床に伸びるいくつもの長い影を視界に捉えた。同じように蒼白く肌を染めた女を手元に引き寄せる。
「シェライーデ」
「はい」
「少し待ってろ。必ずお前に国を返してやる」
静かに、だが強く断言すると女は闇色の目を瞠った。大きな瞳にルースはリグを思い出して小さく笑う。
長らく彼に寄り添っていた影。だがもうすぐやって来るであろうその関係の終わりに、彼は少なくない感慨を抱いていた。先程よりも低い声で囁く。
「待っていろ。もうすぐお前を国に帰してやる」
人の姿を取り戻そうとも常に彼の傍にいたシェライーデだが、これからはそうもいかなくなるだろう。
だがそのことに不満を言うつもりはない。会いたいと思えば会いに行けばいいのだ。
それよりも彼女に本来の居場所を取り戻してやりたいと思う。
ルースはほろ苦くも穏やかな愛情を込めて彼女の髪を梳いた。シェライーデは軽い驚きから醒めたらしく、ふっと微笑む。
「私よりもずっと貴方の方が王に向いているのですが」
「またその手の話か?」
「本気ですよ。私は本来神職ですし。そちらの仕事だけをしているくらいでちょうどいいんです」
ゆっくりと言い聞かせるような言葉は夜の部屋に染み入って消えた。ルースの指が髪を離れると、シェライーデは彼の膝に乗ってくる。
「だから私が駄目そうだったら、代わりにノイディアのこと、よろしくお願いします」
「何だ駄目そうだったらって」
「駄目だったら」
鮮烈な笑顔を見せる彼女が何を考えているのか、ルースにはいまいち分からない。
政務に自信がないと言うのだろうか。彼は思わず顰めかけた眉を戻すと苦笑した。
「俺がやらなくても他に出来る人間が国内にいるだろう」
「貴方がいいんです。こうなってしまった今、ノイディアにはむしろ新しい風を吹き込む王が必要ですから」
「お前がやれ。駄目だったら手伝ってやるから」
「ええ? じゃあ駄目なところをお願いします。―――― 約束ですよ」
嬉しそうなシェライーデは昼の姿であれば飛び跳ねていただろう。今は人である彼女は男の首に抱きついてくる。
しなやかな背、ほっそりとした両足を抱き取りながら、ルースは自信を窺わせて笑った。
「約束しよう。それくらいの望みは叶えられるからな」
欲しいものは沢山あると言っていた女だ。元よりその希望を叶えてやりたかった。
ルースは軽い女の躰を抱き上げると寝台の中央に下ろす。
「その代わり別の男を作るなよ?」
「約束します」
あどけない微笑は、いつも彼にだけ向けられる。
そうして自分を求めて伸ばされる両腕に充足を覚えると、ルースは小さな唇に己のそれを重ね、目を閉じたのである。