王の器 19

禁転載

晴れた空は見渡す限りどこまでも広がっている。
風のない草原は陽光に温められた空気で蒸し暑いくらいだった。ルースは数万の軍に踏み躙られる青草を少しだけ心配そうに見下ろす。
普段は牧草地となっているというこの草原だが、ここまで馬蹄に踏み荒らされてしまって後はどうにか出来るのだろうか。
そんな疑問を彼は抱いたが、今は目の前の敵を排することの方が、ノイディアの民にとっても重要であろう。
ルースは刹那の思考を頭の中から捨て去ると、軍を動かすことに意識を戻す。
「よし、いいぞ。もう少ししたら右翼を前進させろ。砲撃兵器の射程に押し込め」
彼の指揮を伝えるべく、伝令の馬が走っていった。
遠くで響く砲撃、やまぬ剣戟の音を聞きながらルースは自身も馬を進める。戦況を見渡せる後方から直接指揮が出来る前線へと出て行った。

ノイディア王都が奪還されてから二週間。残る戦場はこの王都西の草原だけである。
ルクサはそれまで南部砦の戦力に対し、買い込んだ砲撃兵器を巧みに使い優勢に立ち回っていたのだが、王都が解放されたことを機に、さらに一万七千の軍勢が彼を討つべく戦場へ投入された。
そしてその軍の指揮を執ったのは、老将軍からの強い推薦を受けたルースである。
彼は、南部砦からの攻撃を押し返したルクサ軍の後背をつくと、疲労が抜けていない敵軍を確実に突き崩し始めた。
その時点ではまだルクサ側が五千ほど多い兵数を擁していたにもかかわらず、ルースは砲撃兵器の届かぬ場所を見抜くと柔軟に騎馬兵を動かし、敵軍を翻弄してはその人数を削っていったのだ。

一人斬り捨てるごとに、血と脂が剣の刃にまとわりつく。
ルースは刃こぼれも出来てしまった自身の剣に舌打ちすると、それを敵兵の死体の上に投げ捨てた。鞍につけている鞘から新しい一振りを抜き取る。
戦場には既に砲撃の音は響いていない。もはやルクサ軍のそれらは無力化され、草原は半ば乱戦の場となっていた。
ルースはかろうじて存在する前線を少しずつ押し上げながら、敵の本陣を包囲していく。
首魁である男の顔は知らない。だが、貴族というものはある程度見れば分かるのだ。
ルースは、怒声を上げ向かってくる兵士の剣を避けると、その頸部に刃を叩き込んだ。肝心の標的を探して視線を巡らす。
血で濡れた草々。死の匂いが立ち込める空気は温く淀み続け、無残に転がる死屍は今が歴史の変わり目であることを如実に示している。
ここ数十年争いらしい争いもなかった山中の国は、いまや草原を埋め尽くす怒号と流血によってその行く先を決められようとしていた。
次第に奥の林へと追いやられていく敵軍をルースは睨む。
もはや勝敗は決したと言っていいだろう。
敵騎兵の中には馬を捨て林に逃げ込む者もいる。
そういった者たちの顔に浮かぶのは焦りと恐れで、戦う意思が残っているようにはとても見えなかった。
一応それらの者も捕らえ得るように、ルースは騎馬兵に林を迂回して待ち伏せするよう指示する。
「さて、ルクサは生かすか殺すか……」
そんな呟きを零したのは半ば無意識であったが、聞こえるはずもないそれをまるで感じ取ったかのように、乱戦の向こうで男が一人、ルースを見た。
壮健そうな体つき、四十代半ばに見える男は、飾り気はないがよく手入れされた鎧を身に着けている。
その薄灰の双眸には充分な教育を受けた知性があり―――― そして煮えたぎるような憎悪があった。
それが誰であるか、直感したルースは、男に向かって声を上げる。
「ルクサ!」
男は名を呼ばれ、体を震わせた。
すぐ背後が林というところまで追い詰められながら、彼は怯むところの一切ない目でルースを睨む。甲高い声が叫んだ。
「私を気安く呼ぶな、奴隷腹の小僧が!」
「ああ、やっぱりルクサか。よし、あいつを捕らえろ」
ルースが指差すと、何人かの兵士がルクサの方へと駆け出した。彼らはたちまち敵の兵士と斬りあいになる。
彼はその様子を見ながら自身も馬を進めた。
「奴隷腹」などという謗りは物心ついた時から聞きなれている。今更どうということもないのだ。
だが彼は、続くルクサの言葉に不快げな顔になった。
「あの偽りだらけの娼婦にたぶらかされたか!? 魔術を弄する穢らわしい汚物に!」
「何だと?」
それが誰を指しているのか。彼だけではなくその場の誰もが理解し得た。ルースと近しい女は一人しかいない。
今は戦場を離れ王都の城にいるアルタ・ディティアタ。政権を預かる彼女を侮辱され、周囲の兵士たちは一瞬で憤った。ルクサ目掛けて殺到していく。
しかし、ルクサは自軍を盾に耳障りな哄笑を上げると、軽々と馬を飛び降りた。身を翻して雑木林の中へ走り去る。
すぐに何人かがそれを追って林の中に飛び込みかけたが、ルースは声を上げ、彼らを制止した。
濃い血臭をさせるラノマが戻ってきて、主人に問いかける。
「追わなくていいんすか?」
「あれは挑発だ。林の中に伏兵でもいるんだろう。林を包囲してから徐々に炙り出すさ」
林の中に駆け込む直前、ルースが見た男の目は、とても敗走する人間の目には見えなかった。
ならばまだ何か手を隠しているということだろう。ルースはその誘いには乗らず、戦線を立て直すよう指示する。
ラノマはルースと同様、刃こぼれして使い物にならなくなった剣を鞘に戻すと、身を屈めて近くに突き立っていた死者の剣を引き抜いた。重さを確かめるように軽く手元で振る。
「しかし殿下、挑発が効かないなんてさすがですね。オレなら切れてますよ」
「効いていないわけじゃない。捕まえたら思い知らせてやろうと思ってる」
「もう林に火を放てばいいんじゃないすかね」
「山火事になったらどうやって鎮火させるんだ」
「雨乞いとか」
馬鹿馬鹿しい会話を交わした二人は、しかしどちらからともなくその場を離れると、残敵掃討のため動き出す。

結局、敵の残存兵力を全て殺ぎ落としてしまうまで、戦闘は五日にも及んだ。
持ち駒全てをルースの手に寄って叩き落された男は、しかし捕らえられることなく僅かな護衛と共に森の中に消え、行方をくらます。
だが、こうして傀儡を使いノイディア王家を転覆させたルクサは、隣国から来た男の前に敗北を喫したのだ。
―――― 後に残るものはただ、色濃い記憶のみである。






ノイディアの王都は短期間玉座にあった男の暴虐の為か、民草は飢えて怯え荒廃しかけていたが、城そのものは美しく保たれたままであった。
白く壮麗な建物は緑に覆われた国土にひときわ映えて見え、その内には高価な美術品が惜しげもなく並べられている。
しかし城に戻った人間たちは、それを喜ぶよりも唾棄したそうな顔で飾り立てられた城内を見回しただけだった。
元の王城にはここまでの装飾品は置かれていなかった。
つまりこれらは、我欲に捕らわれた男が王を殺し、親族を殺し、あらゆる邪魔者を排除した後、城庫の金で買い揃えた品々なのである。
委任状を持って入城したシェライーデは、すぐにそれらを換金し王都の復興にあてた。
昼は豹の姿でほとんど眠っており、夜になると動き出す美しいアルタ・ディティアタはそつのない手腕で復興策を指示していく。
そんな彼女は戦場から戻ってきた恋人が執務室を訪れると、白を基調とした神職の正装を翻しルースに飛びついてきた。
「お疲れ様です。どうでした?」
「問題なし。ああ、あと少しのところでルクサを逃がしてしまった。今追っ手をかけてはいるが。悪い」
「構いません。どうせもう何も出来ないでしょうし」
たおやかな笑顔でさらりと叛逆者の行く末に触れた彼女は、恋人に長椅子を勧めるとその隣に座った。甘えるようにもたれかかって、数枚の書類を見せてくる。
「お疲れのところすみません。これ、今後の予算案なんですけど手がすいた時にでも見ておいて下さい」
「……イルドじゃ駄目なのか?」
「貴方じゃなきゃ意味がないんですよ。ノイディアはリサイとは風土のせいで大分違いますから。ざっとでいいんで記憶に留めといて下さい」
「分かった」
その後もぽんぽんと渡されたのは、どれもノイディア独自の色が多く見られる項目に関しての執務書類である。
まるで政務者を教育するようなシェライーデの選別に、ルースは苦笑しつつも大体に目を通した。
「こういうものは重要機密じゃないのか?」と問うと「貴方は知っておいて下さい」と返ってくる。
ルースは大事な箇所を女に読み上げさせながら、月光が艶を作る黒髪をゆっくりと撫でていった。
白い絹衣の裾に手をかけ、だが彼はふとあることに気付いて恋人の顔を覗きこむ。
「そういえばお前、戴冠式はしないのか?」
「うーん、今のところ考えていません。貴方が戴冠してくれるのなら準備しますよ」
「何故俺が。脈絡がないにも程がある」
「そうですか?」
シェライーデはちらりと右の執務机を振り返る。そこにはまだ開封されていない政権委任状が置かれていた。
彼女は視線を戻すと、豹のように顔を近づけてルースを見つめなおす。
「貴方、民にも兵にもすごく人気がありますから。こんな短期間のうちにここまでになるって私にも吃驚です」
「それはお前っていう前提があるからだろう」
苦境に見舞われていた王都を解放した彼は、人々に食料や医者を迅速に手配したことや指揮の腕を以って、半ば英雄のように称えられていた。
ルクサの考えでは本来彼自身が傀儡を退けることによって得るはずだったろう支持を、ルースが期せずして手にすることになったのだ。
シェライーデはそれについて楽しそうに笑っているだけだったが、ルース自身は他国のことに介入しすぎたかと思わないではない。
彼は恋人の頭を撫でると城に戻る前から決めていたことを口にした。
「シェライーデ、そろそろ俺はウィリディス城に帰る」
「そう……ですか。随分長い間、力をお借りしてしまいましたし、向こうのことも心配ですね」
「ああ。どうやら二番目の兄が王に出兵を焚きつけているらしくてな。面倒ごとが起こりそうだ。
 それ次第ではこれから協力を頼むこともあるだろうが」
「何なりとご要望下さい。ノイディアの民は貴方に恩を返したいと思うでしょう」
彼女はルースの腕の中をすり抜けると露台に出る。
空から降り注ぐ月光が、神の代理人である女の衣を薄青く染め上げた。ルースは彼女の後について外の空気を吸い込む。
シェライーデは淋しそうな顔をしていたが、それは悲しみと同一ではないようだった。むしろ彼女は穏やかに微笑んで彼を見上げる。
「でも、貴方にはもう一つの選択があるんですよ。この国の王となって、山々と荒野を共に治めるということも―――― 」
「お前の夫になって、か?」
「貴方が、王冠を得るんです。貴方だからこそこの国を僅かな期間で解放できた。私の選択は間違っていません」
「シェライーデ」
ルースは女の体を抱き取ろうと手を伸ばした。
しかし彼女は露台の角に歩み寄ると、欄干にもたれかかり眼下の街並みを見下ろす。愛しげな視線が夜に灯る家々の明かりを撫でていった。
「ルース、私はこの国が大事です」
「ああ」
「そして貴方のことはそれ以上に―――― 」

風を切る音。
言葉が、切られる。
シェライーデが自分の意思で口を閉ざしたのではない。
彼女から声を奪ったものは、胸から背へ貫通した一本の矢だった。
細い身体はゆっくり傾ぐと、糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちる。夜の庭から覚えのある男の笑声が響いた。
あまりの光景に一瞬自失したルースは、しかしシェライーデに駆け寄るとその身体を抱き起こす。
「シェライーデ!」
矢は、彼女の胸を真っ直ぐに突き通していた。白い衣装がみるみるうちに血で染まっていく。
覆しようのない致命傷。それが唐突に恋人を襲ったことは明らかだ。
ルースは、浅い呼吸を繰り返す彼女の体を抱き上げると、医者を呼びに廊下へと駆け出す。いつかもそうしてリグを抱いて助けを求めたように、暗い城内に向かって叫んだ。
「誰か来てくれ! 医者が必要だ!」
逃がしてしまったルクサが城に侵入している―――― それはかろうじて理解出来たが、ルースはその事実がもたらす結末に少しも納得出来ずにいた。
「必ず守る」と言った己の言葉が虚しく頭の中にこだまする。
広がっていく血の染み。鮮やかな赤色に絶望が滲んだ。
ルースは一向に誰も現れないことに焦りを覚えると、もう一度人を呼ぼうと口を開く。
しかしその前に、女の小さな手が彼の手に重ねられた。

「ルース」
「シェライーデ、喋るな。今医者のところに連れて行く」
「いいんです。こんなものは何でもないんですから」
女の声は、先程まで苦しげな息をしていた人間と同じとは思えないほど澄み切っていた。
驚くルースが視線を落とすと、シェライーデは右手を自分の胸に添える。
血塗れた傷口に伸ばされた白い指。その指先が触れると、突き刺さっていた矢がまるで幻のように掻き消えた。
同時に広がった血の染みも、時を巻き戻すかのように小さくなっていく。ルースはあまりにも非現実的な光景に息を飲んだ。
「……魔術か?」
「ええ。全て」
またたくまのうちに怪我の痕跡も見当たらない体になった彼女は、男の腕の中から床に下りると微笑む。
類を見ない清冽な美貌。深い闇色の瞳は夜の景色を吸い込んで、そこに茫洋たる広がりを宿していた。
シェライーデは深く息をつくと、窓の外、広がる国土を見つめる。
「全て映しこんで動かすので、私には予想外のことも多いんです」
「すぐに兵を呼ぼう。城を封鎖させる」
「いえ、それは不要です。もう止めましたから」
「止める? 何のことだ? 魔術か?」
「ルース」
小さな手が、彼の頬に触れる。
柔らかい肌。しかしそこから伝わってくるものは水のような冷たさだった。驚く男に彼女は微笑む。
「ずっとずっと、貴方を愛している。いつの時も、何処に在っても。
 叶うなら、はじめから貴方の傍に生まれたかった」
「シェライーデ?」
彼女の存在は、綺麗に出来ている分だけとても儚く見える。
しかしルースは、穏やかな声音の中に切り離せない痛切が含まれている気がして、目を逸らすことが出来なかった。
神の意を汲む女。その最後の一人である彼女は、預言を伝えるように彼に強い言葉を捧ぐ。
「ルース、よく聞いて下さい。貴方には、王の器が備わっている。きっと名君になれる。
 今、苦しむ多くの人々も貴方の才と優しさがあれば、やがて穏やかな暮らしを得ることが出来るでしょう」
そこにあるものは深い愛情。そして揺るがぬ信頼だ。鮮やかな微笑は彼だけに向けられる。
「だからどうか、王になって。私の民を救って」
投げかけられた両腕。
シェライーデはか細い身体を反らしてルースを抱いた。幸福そうに微笑んで男に口付けを贈る。
甘やかな感触。
顔を離した彼女は、小さな囁きを残すと目を閉じた。彼女を抱き締めるルースも同じように瞼を閉ざす。
月光が塗り分ける白と黒。鮮やかに別たれた光と影は、とても遠い距離をそうして寄り添った。
永遠を望み、否定し、得られた束の間に多くの思いを注いでいく。
縫いとめられた月。
夜は沈黙する。
時が歩みを止める。
充足が魂を覆った一瞬。
そして世界は、白い光に塗りつぶされた。