夢の果て 20

禁転載

「シェライーデ」
己の声を引き金にして彼は現実へと戻ってくる。反射的に体を起こし、辺りを見回した。
広すぎない、物の少ない部屋。
見えるものは二つの机と一つの本棚だけで、窓の外は夜でもない。
見慣れた光景。視界に入るものは全て、彼にとって日常的なものである。
ウィリディス城の執務室で自分の椅子に座っているルースは、目に映る一つ一つのものを注視していった。
机の上に処理しかけの書類を見出すと、彼は呆然と記憶を探る。夢と現実、その曖昧な境界線を意識が行き来した。
「シェライーデ…………リグ……?」
その名を口にしても応える者はいない。
己で呟いた名。しかしそのうちの一つは、彼に苦い鈍痛をもたらした。記憶を呼び起こすより先に喪失感が甦る。
喉につかえる痛みと空虚。その理由を思い出してルースは愕然と呟いた。
「リグ、は、いない。―――― 死んでいる」
数日前の夜、毒姫の手から彼を守ってリグは死んだ。
間違いない。彼自身の手で遺骸をフィオナの墓の隣に埋葬したのだ。
だからもうリグはいない。いるはずがない。女に変じるはずも、ない。

ならば彼の隣にずっといた彼女は、何であったのだろう。
全ては慙愧の念が見せた幻だったのだろうか。

ルースは混乱する頭を抱え、こめかみを押さえる。
その時執務室の扉が叩かれ、イルドが入ってきた。彼は驚き覚めやらぬといった苦々しい顔で主人に二つの報告を呈する。
「殿下、実はかなり厄介な問題が入ってまいりまして」
「何だ?」
「一つはノイディア方面より国境を越えてきた怪しい一行と、見回りの人間が揉めたらしく、相手を捕縛いたしました。今広間に引き出しております」
「ノイディアの……」
「もう一つはまだ確定の情報ではないのですが……王が殿下をこの城から北部に異動させるよう、使者を送り出したとのことです」
夢の非現実を危うくさせる部下の報告に、ルースは言葉を失った。
ウィリディス城の人間にとっては予期できなかったであろう二つの情報。
しかしルースは、その先のことを知っている。夢で見たのだ。まるでこれから起こることを予知したかのように。
―――― 偶然かもしれない。だが、本当に偶然なのだろうか。
あれはとても現実的で、ただの夢とは思えなかった。彼女の纏っていた鮮やかな存在感も含めて全て。
ルースは震える手をついて椅子から立ち上がる。
「殿下?」
「ノイディアの人間に会いに行く。全てはそれからだ」



あれは、現実ではなかった。
こうして現実に戻ってきた今なら分かる。こちらが本当で……だがあれは、現実に酷似していた。
ならばあれは何であったのか。
ルースは足早に広間へ向かう。次第に早くなっていく歩調は最後には走り出しそうなほどであった。
両開きの扉を乱暴に開けると、広間にいた人間たちの視線が皆彼へと集まった。その中で一人だけ床を見つめたまま動かない人間がいる。
ルースは蹲って抜け殻のような少女の前に駆け寄ると、彼女の肩を叩いた。
「シェライーデは何処だ」
その問いに、欲しい答が返ってくると信じていたわけではない。
誰のことだと失笑される可能性もあっただろう。むしろ、そうなるべきだった。
だが少女は体をびくりと震わせると、あどけない顔をたちどころに歪ませる。隣にいた男が「どうしてその名を……」と呟いた。
ルースは床に膝をついて少女を覗き込む。
「お前はシェライーデを知っているな? あいつは今何処だ。ディアなんだろう? 方角が分かるか?」
「……いない」
「嘘をつくな! 俺はあいつを知っている!」
「いない! 何度も言わせないでよ! アルタ・ディティアタは死んだのよ!」



それは、飲み込めない言葉である。
少女は糸が切れたかのように泣き叫んだ。その体を隣にいた男が押さえる。
何が起こっているのかまったく分からないウィリディス城の人間たちを前に、ルースはその場で凍りついた。
繋がらない断片。
現実を否定し、夢を否定する。
そうして整理出来ぬ疑問を形にすると、彼はややあってようやく口の端に乗せた。
「何か……勘違いしているな。俺が聞いているのはあいつの父親のことじゃない。あいつのことだ。
 シェライーデ……俺の……」
途切れた言葉を受け取り、ルースを見上げたのは、泣きじゃくる少女を抱いた男だ。
夢の中ではタウトスと名乗っていた彼は、困惑と悲しみをないまぜにした目でルースに返す。
「あなたがどうしてあの方の名を知っているのかは知らない。
 知らないが、彼女の父親、前代のアルタ・ディティアタはもう十年も前に亡くなっている。
 シェライーデ様は五歳の時にお父上の役目を継がれ、十年後の今日までアルタ・ディティアタでいらっしゃった」
彼女は、ずっとアルタ・ディティアタだった。
リグではなかった。リグはもう死んでいる。
彼の傍には誰もいない。ルースは虚脱した声で聞き返す。
「今日まで? 何だそれは」
「つい先程亡くなられた。エナがそれを感じ取った」
他国の人間には理解できない繋がり。だが男は、ルースが「ディア」と言ったことで話が通じると思ったのだろう。
実際ルースはその言葉を理解した。けれど事実が理解出来なかった。
彼は忘我の表情でノイディアの人間たちを順に見回す。
「何だ……随分面白くない話だな。お前たち、ルクサの兵から逃げてきたんじゃないのか?」
「―――― 何故それを」
「正直に言え。シェライーデは何処だ? 俺はあいつを傷つけない」
「アルタ・ディティアタは……」
ルースの詰問に男は明らかに戸惑って、だがその答を口にした。
「あの方は、我々を逃がす為に魔術で石門を破壊された。そしてその場に残った……あの方のお体は、数日前から毒矢に蝕まれていた」
男の目に偽りは見えない。
ルースはそのことを知って、そして沈黙した。






彼の傍には、常に一匹の影がいた。
幼い頃から共にいた豹。リグはけれど、彼を守って毒に侵され死んだ。
その後に現れた豹は―――― 闇色の瞳を持っていた。そうして女に変じると彼の傍に寄り添ったのだ。
シェライーデは、リグの死を知っていて、そうして入れ替わったのだろう。夢の中の彼女は両手に白い花を持って中庭の墓を訪れていた。
右手と左手に一つずつ。フィオナと、リグの分だ。
全ては彼女の見せた夢だった。歴代でも抜きん出た力を持っていたというアルタ・ディティアタ。その彼女が魔術で作った夢。
ディアは、魔術の媒介にも出来ると彼女は確かに言っていた。
そしてウィリディス城にエナが入った瞬間から、シェライーデは束の間に長い時を込めてルースに夢を見せたのだろう。自らが死す、その瞬間まで。



「何故こんなことをした……」
会ったことも見たこともない女。いや、本当の彼女はまだ少女だった。十五歳になったばかりの頼りない少女。
その彼女が何故ルースを選んであのような夢を見せたのか。彼は堪えがたい喪失を胸に露台の欄干を握り締める。
「シェライーデ! 何故だ!」
闇夜の中に消える叫び。
だが、答はきっと分かっている。彼はそれを聞いている。
『……だからどうか、王になって。私の民を救って』
淋しそうな嬉しそうな顔を見せていた彼女。
彼女はルースに自国の情報を惜しみなく与え、その解放を請うていた。
それは死を間際にした彼女が発した最後の願いだったのだろう。
そこまでを理解しながら、しかしルースは何一つ飲み込めていないままだ。狂おしい激情が精神を焼き続ける。
―――― 初めて女を愛した。
だがそれは始まった時から既に終わっていたのだ。彼は、彼女の本当の姿を見ることも出来なかった。その手を取ることも。守ってやることも。
ルースは、彼の傍で稚く微笑んでいた彼女の笑顔を思い出す。
「シェライーデ……お前は馬鹿だ……何故、ここまで来なかったんだ」
そうすれば彼は何かを出来ただろうか。
それとも彼女がこの城にたどり着くことは、ついには出来なかったのだろうか。
『ルース、私はとても幸せ。貴方といる時、幸福を感じている』
幻の温もりと多くの言葉を残して、彼女は消え去った。
寄り添う影はない。
そうして彼の傍には今も、月光だけが降り注いでいる。






翌日面会を希望してきたタウトスは、執務室を訪れると一通の封書をルースに差し出してきた。
見覚えのある紋が捺された封書。ノイディアの政権委任状をルースは無感動に見やる。
「何故、俺にこれを?」
「アルタ・ディティアタのご遺志です。元は陛下があの方に委任したもので……それをあの方が更に書き加えました。
 どうぞご開封ください」
夢の中では「迂闊に開けてはいけない」と言われ、ついには開かれなかった封書を開封するよう言われて、ルースは少しの意外さを覚えた。
彼は躊躇いもなくナイフを取ると、紙の端にあてる。
中から出てきた紙には形式的な文章に添えて、三つの名が書かれていた。
一つは王からアルタ・ディティアタ、シェライーデへ政権を委任するもの。
そしてもう一つはシェライーデの名で―――― ルースへの政権移譲が記されていた。
予想外なその内容にルースは数瞬絶句する。
しばらくの後にようやく呆然とした状態から抜け出ると、ルースはタウトスを見上げた。
「何故。俺は他国の人間だ」
「アルタ・ディティアタは、一番確実な人間に任せると仰っていました。
 ……こういうことを私が明かしてしまうのは問題でしょうが……シェライーデ様は、ずっとあなたの話を聞き、憧れていらっしゃったのです。
 アルタ・ディティアタは国外に出ることを許されておりませんが、いつかあなたにお会いしてみたいとよく仰っていました」
忙しい神職の仕事の合間を縫って、シェライーデは馬を駆り国境近くの丘へ行くこともあったのだという。
そうして偶然遠目に彼の姿を見つけると、ただの少女のように浮き立った。
神の預言者である彼女に、そのような言葉をあてることは禁忌であったが、シェライーデはルースに恋をしていたのだろう。
少女らしい憧れを胸の中に募らせ、死に至るまでの間、彼の傍に来た。
自らが映し出した虚構の世界で、彼女はついに秘せる恋を叶えたのだ。



ルースは並べられた自分の名と彼女の名を無言で見つめる。
見覚えのある綺麗な筆跡。溜息と共に委任状を折り畳んだ彼は、それを元に戻そうとして、しかし中に小さな紙がまだ残っていることに気付いた。
引き出すとそこにはシェライーデの字で一言だけ書かれている。―――― 「ごめんなさい」と。
ルースはそれを見て、まるで目の前で彼女が頭を下げているかのような錯覚に捕らわれた。小さな紙を大切に手の中へ握り締める。
「馬鹿か……こういう時は他に言うことがあるだろう」
彼女はもういない。ただその願いと言葉だけが残っている。
彼は小さな紙片に口付けると微苦笑した。
「愛している」






広い宮廷には、しかし余分な装飾品はほとんどない。
それは主である皇帝がそういったことにあまり興味を持っていない、ということもその理由であろうが、この宮殿自体がまだ作られたばかりであるという理由の方が大きかった。
リサイ、ノイディア、ランバルド―――― 旧三国が交わっていた国境上に建てられた城は、青い空の下、壮麗な姿を覗かせている。
東に面する窓からは皇帝がかつて住んでいたウィリディス城が見え、その裾から広がる緑が荒野に鮮やかな色を加えていた。
彼の新しい居城を整えるため多くの者たちが忙しなく働く中、当の本人は露台から伸びていく街道を眺めている。
そうしてぼんやりと時を過ごしている彼へ、一年ぶりに宮廷を訪れた隊商の長はそっと声をかけた。
「陛下、よろしいでしょうか」
「ああ、お前か。久しぶりだな。今度は何を持ってきた?」
「色々でございます。またよい商いをさせてくださいませ」
悠々と笑ってみせる長にルースは苦笑する。
この男はノイディア王都を奪還した時から先行投資として、多くの援助をルースにしてきたが、そのもとは充分に取れたと言っていいだろう。
彼がノイディアの後ろ盾を得てリサイの玉座に座ってから九年、いまや広大な国土を持つ帝国の主となったルースは、先見の目がある長に、その才に値するだけの見返りを与えていた。
彼は口頭で伝えられる商品からいくつかを選ぶと、それを買い取る旨口にする。
長が了承すると、ルースは別のことを思い出して軽く手を打った。
「ああ、そうだ。お前を兄上に紹介したいから少し待っていろ」
「陛下の兄君、でらっしゃいますか?」
「そうだ。死んだ者も含めて数えると三番目の兄と四番目の兄だな。
 今すぐ、というわけではないが、やがて三番目の兄がこの帝国を治めていくことになる。
 お前も今のうちに挨拶をしておいてくれ」
「そ、それは……」
軽く口に出された内容の重さに、長は愕然とした。
たった十年で作り上げられた帝国。それはルースの才覚があってこそのことなのだ。
ノイディア王都を解放した彼は、是非王にと望まれながらウィリディス城に帰り、彼を排そうと軍を出してきた王を、ノイディアの援護を受けて退けた。その上で荒れたリサイ王都に戻って玉座争いを制すると、リサイとノイディアを一つの国としたのだ。
奴隷の母を持ちながら王となった彼には、その後もランバルドからの侵攻など苦難がつきまとったが、彼は全ての苦境を乗り越えた。他に言えばリサイ北の隣国を下し、調停にこぎつけたこともルースの功績である。
そうしてようやく得られた新しい帝国と平穏を、しかしルースは兄に渡すという。
確かに彼に残る二人の兄は、どちらも誠実な人柄と有能さで知られているが、それは思い切った判断であろう。
口をぽかんと開いてしまった長を見て、ルースは笑い出した。
「そう驚くな。昔から考えていたんだ。全て終わったら旅に出ようと」
「た、旅にでございますか?」
「ラノマじゃないが、しばらく国を出て大陸を回ってみる。―――― 実はずっと探している女がいてな」
今年三十七歳になる彼は、しかし未だ妃を迎えていない。
その原因について巷では種々の噂が囁かれていたが、長は実際のところを聞いたことが一度もなかった。
今、自分がその真実を目前にしているのではないかと感じて、彼はいささかの好奇心を覚える。
「それは……どのような方でいらっしゃいますか? わたくしもあちこちを回っておりますゆえ、何処かでお会いしているかもしれませぬ」
「ふむ。お前、最後のアルタ・ディティアタを知っているか?」
アルタ・ディティアタ―― 旧ノイディアにいた神職の称号。
今はもういないその存在を耳にし、長は内心嘆息した。
人々の間に流布している噂のうち、もっとも人気を集めている話―― それはルースと、最後のアルタ・ディティアタであった少女の恋物語だ。
国境を越え密やかに愛し合っていた二人はしかし、ノイディアの政変によって少女が死すという悲劇を迎える。
残されたルースは彼女の願いを叶えてノイディアを解放したが、未だ彼女のことを忘れてはいないという話だ。
長は噂が真実であったことを知って驚きを押し隠した。
「申し訳ございません。あいにくその方とお会いしたことはありませんで」
「そうか。まぁそうだろうな」
「陛下はその方を探してらっしゃるので?」
噂では彼女の遺体は見つかっていないと聞く。
ルースはそこに一縷の望みを抱いて彼女の行方を追っているのだろうか。
そっと伺う長に、皇帝は苦笑した。
「そうだ、と言うと学者たちに説教されるだろうな。人は死して生まれなおすことはない」
「では」
「気にするな。俺は正気だ。さぁ、兄上の体が空くまで少し待っていろ」
ルースが話を打ち切ると、男は深く頭を下げてその場を辞した。
再び露台に静寂が戻ると、ルースは乾いた風に懐かしげな目を向ける。


『また、いつか、何処かで』
それは夢が覚める瞬間、彼女がルースに囁いた言葉だ。束の間の別れを笑顔で見送る言葉。その意味をルースはとうに分かっている。
だから彼は彼女の言葉を信じて、これから大陸を探し続けるのだろう。その旅がいつ終わるのか、今は分からない。
ルースは風に乱れた髪をかき上げると、広がる世界に向かって笑った。
「次は間に合う。何処にだって迎えに行ってやる。そうだろう? ―――― 」






アディリランスという名で知られる帝国を作った初代皇帝がその後どうなったのか、正確な記録はどの書物にも記されていない。
しかし人々は、そして吟遊詩人たちはまことしやかにその行く末を謳い続ける。
広大な大陸を巡り、国々を渡り歩き、ついには西の大陸へと渡った彼は、そこでかつて恋した少女と再会する。
そうしてようやく結ばれた二人は、いつまでも寄り添い、幸せに暮らしたという話だ。