祈り

月の光は夜空を明るく浮き立たせている。
見上げて黒いものは森の木々ばかりで、その遥か上空は流れる雲の一つ一つまで鮮明に見て取ることが出来た。
火が消された辺りはすっかり夜の腕に絡め取られており、ひんやりとした草が夜露の欠片を蓄え始めている。
山を覆う森とその森に接している緩やかな斜面。一晩の野営地となっているこの草原の端は今、重い睡魔がそこかしこに立ち込めていた。明かりの消えた天幕が居並ぶ。
昼青く見える森は、今は深淵に繋がっているかのように闇の中に閉ざされている。
その縁にある木の前に座す男は、空を見上げると冷えた夜気を深く吸い込んだ。
少しだけちりちりと痛む肺は、しかしすぐに体温に馴染んで分からなくなる。代わりに吐き出された呼気は白く、夜に温かさを分け合って消えた。
彼は胸元から一通の封書を取り出すと、手の中で返し、捺された紋章を眺める。
円状の枝が外周となっている紋。その中には女の横顔と剣があしらわれていた。物憂げに目を伏せた顔の上に、斜めに剣が描かれている。
「ルース」
小さな声に名を呼ばれ、彼は顔を上げた。見ると闇の中、一人の女が立っている。
厚布にくるまった若い女は、長い黒髪をかき上げると微笑んだ。
「まだ起きていたんですか?」
「目が覚めた。お前もそうか?」
「貴方がいなくなったので」
近くの天幕を出てきた彼女は男の隣に座すと彼の手元を覗き込む。男が持つ封書に気付くと彼女は微笑した。
「それがどうかしたんですか?」
「いや。この紋の由来は何だろうなと思って。剣と女はこの国の王と神職を意味しているのか?」
隣国ではあるが、風土も宗教も異なるこの国のことをルースはよく知らない。
知らないまま、けれど利害が一致した為、今はその王都を目指して行軍しているのだが、好奇心を抱くこともやはりあるのだ。
彼に自国のことについて尋ねられた女は、稚い笑みを見せた。
「いいえ。逆です。剣が神職、女が王家を意味しているんですよ」
「ああ、そうなのか。少し意外だな」
「正確なところは秘されている話なのですけどね。―――― 西の大陸から渡ってきた男と、神の祝福を国に与えた王女のお話」
女は木の幹によりかかると、昔話を語り始める。






大陸が変われば常識が変わる。
それはある程度弁えていたことであったが、よくも悪くもその常識の違いはアルゴにとって大きなものであった。
長い航海の末ようやく辿りついた東の大陸で、単なる旅人として数年間諸国を巡った彼は、今までの足跡を思い起こす。
「確かに向こうでも精霊術士は珍しがられたけど、こっちに来たら更に珍獣扱いとはなあ」
「何の話ですか、御使い様」
「その呼び方が珍獣扱いっていうんだよ」
広い街の中心部、石畳で舗装された道を行くアルゴは、ついてきた少年を苦々しく振り返った。故郷ではしばしば優男と揶揄されていた線の細い面に、憮然とした表情が浮かぶ。
山と森に囲まれた緑の国。
そこにふらりと現れた彼は、半年前流行り病の治療にかかわってから、その力を見抜かれ「御使い様」と呼ばれているのだが、彼自身は甚だその呼ばれ方が気に入らない。
それというのもこの国には神職の家系というものが存在し、彼らの持っている力がアルゴの力と同種である―― しかもアルゴは彼らよりずっと強い力を持っている―― ことが原因なのだが、彼からすると、この力は神の力ではなく単に精霊魔法なのだ。
そこには神の恵みはおろか信仰心も何もない。
魔法とは魔力を持った人間が法則に基づき行使するもので、西の大陸において「魔法士」と呼ばれる彼らは、アルゴもそうであるようにその大半が無神論者である。また中でも精霊魔法を扱う精霊術士とは、生まれつきの適正によって決まる魔法士の一種でしかなく、彼の両親もこの精霊術士だった。
しかしこちらの大陸では普通の魔法士でさえも珍しく、精霊術士にいたってはまったく生まれないものらしい。
とすると、この国の神職も元は西の大陸から来た精霊術士なのだろうが、アルゴがいくらそう説明しても彼らは理解せず、彼を「御使い様」と呼んでやめようとしなかった。男は不平顔で歩きつつ、腰の剣を手探りで確かめる。
「俺は普通の旅人で生きてくつもりだったんだけどなあ」
「御使い様、約束の時間に遅れてしまいます」
まるで子供のように年下の少年に扱われ、アルゴは約束の場所へと引き摺られていく。
彼らが向かう先にあるものは白く壮麗な建物。この国の宮殿であった。

アルゴは宮殿の門をくぐると、王女の待つ小さな庭へと向かった。
今年七歳になる幼い王女は体の弱い母親の体質を継いだのか病がちであり、その療養を彼は自らの知識と力を以って手助けしているのだ。
「アルゴ!」
庭先に白い椅子を置いて座っていた少女は、彼を見るなり笑顔になって手を振った。
その足下に跪いた彼は頭を垂れて礼を取った後、彼女の容態を診始める。
「今日もお話をして頂戴。西の大陸のお話」
「いいですよ。では神などいない、という魔法思想を……」
「この子に教えるつもりではないでしょうね」
背後から降ってきた女の声に、彼は沈黙した。椅子に座る少女が「お姉様」と嬉しそうな声を上げる。
その少女とは対照的に嫌そうな顔になったアルゴは、立ち上がると背後の第一王女に向かって頭を下げた。
「これは失礼しました。サナ殿下。しかし私は自説を譲る気はありませんけどね」
「では貴方のその力は何なのかしら?」
軽く腕組みをしてアルゴを見上げるサナは、日に焼けるのを厭ってか首も袖も完全に覆う灰色のドレスを身に着けている。
同じ色の髪はきつく結い上げられており、薄い化粧と華やかではない顔立ちは、彼女の険だけを妙に目立たたせていた。
アルゴはもう何度目かも分からぬやり取りに、冷めた目で王女に返す。
「ですから、魔法ですよ。神なんて関係ありません。自然法則と一緒で、魔法にも法則があるんです」
「そのような法則、私は見たことありません。信じられませんわ」
「見たことないものは信じられないって、頭が固いですね。じゃあ殿下は神をご覧になったことがあるんですか?」
「神はおられます」
きっぱりとサナが断言すると、アルゴは目を細めた。
どちらも譲る気のないこういった衝突は既に日常茶飯事で、妹姫などは困り顔で嵐が過ぎるのを待っている。
やがて不毛な時間と思ったのか、姉が「失礼しますわ」と言ってその場を立ち去ると、少女は笑いながら憮然としているアルゴを見上げた。
「怒らないで頂戴。お姉様はわたしを心配して様子を見にいらしてくださってるのよ」
「それは知ってますけどね……」
神が実在すると思っているなど、彼からすれば前時代的な思想にも程がある。
アルゴは宮殿の方へ消えたサナの姿を探しでもするように視線を動かした。だが、目に入るものは美しい緑ばかりで灰色の女の姿は見えない。
彼は妹姫に意識を戻すとその傍の草上に座る。
「じゃあ別の話をしましょう。姉上が煩いですからね。そう……魔女の話など如何でしょう」
「聞きたいわ」
興味津々の顔になる王女の体調を確認し、触れた手首から整調の力を注ぎながら、アルゴは子供の頃聞いた話を異国の王女に語って聞かせる。
窮屈ではあるが穏やかな日常。それは長い旅の疲れを癒すには充分なものであった。

剣は得意ではない。だがそれは旅をする上で必要なものであり、彼自身また必要としていたいものであった。
魔法に頼れば物事は簡単に解決する。
しかしその力は海を越えたこの大陸ではあまりにも目立ちすぎるのだ。
なればこそ単なる旅人として異国を巡るこの旅では、出来るだけ魔法の力に頼らないでいようと思っていた。
「そのはずだったんだけどなあ」
何故「御使い」などと呼ばれ、丁重にもてなされているのか。
いくら流行り病の治療に貢献したとは言え、ここまでの扱いはさすがに過剰である。
神を崇めるこの国の在り方に、アルゴも思うところは山ほどあるのだが、それでも彼の検診により少しずつ健康になっていく妹姫を思うと、なかなか出立に踏み切ることが出来ない。世話になっている屋敷で、彼は下働きの少年を前に小さくぼやいた。
「上の姫さんももうちょっと大人しい性格だったらね」
「サナ殿下のことでしょうか。あの方は大変おしとやかな方と聞き及んでおります」
「おしとやか? 棘だらけだ。ひどいよ」
「そうでしょうか。こういっては何ですが、あまり表には出て来られず印象の薄い方でして」
「ふーん?」
言われてみれば、初対面の時はそうだった気もする。
彼が神職の男に連れられて宮殿を訪れた時、「魔法士です」と自己紹介をしてすぐ、彼女はいなくなってしまった。
だが二度目に会った時は既にあのような感じで、だからアルゴはてっきり誰にでもそうなのかと思っていたのだ。
「俺が無神論者だからかなあ」
「神はいらっしゃいますよ」
「いないよ」
代わり映えのしないやり取り。少年は鼻白んだ顔で頭を下げると、小さな食堂を出て行った。
一人になったアルゴは面白くなさそうな顔でお茶を啜る。
「何だかなあ。変わった国」
サナに聞かれればかなりの勢いで怒られそうな感想を、彼はぽつりと洩らしてみる。
そうして彼は少しだけ彼女の刺々しい言葉を思い出すと、机の上に突っ伏した。

この大陸ではただでさえ魔法薬は珍しいのだが、更に精霊魔法で作る薬となると稀少の一言では言い尽くせぬほどである。
アルゴは体調を整える魔法薬をいつも通り妹姫に処方すると、彼女の調子を確認し、日誌に記した。
粉薬を飲み干した少女は口直しに砂糖を入れたお茶を飲んでいる。
その隣に座すサナは、彼がテーブルに広げている書きつけの一枚を手にとって、魔法薬の材料に目を走らせた。
「随分多くのものが必要なのですね……」
「そうですよ。西の大陸なら入手が簡単でも、こちらではなかなかないものもございますし。
 幸い費用は多くを頂いていますから何とか買い付けが出来ております」
「そうなのですか」
複雑そうな表情で考え込むサナは、薬の材料とその効果の記述の上、視線を何度も往復させた。
妹のものとは違ういくつかの病気や症状を挙げ、それにも効果があるのかを彼に問う。
基本的には人間本来の回復力を増強する薬であるから、効果はあるとアルゴが説明すると、彼女は感心したように頷いた。
「材料をまとめて仕入れれば少しは費用を抑えられるかしら。これなら広く普及させれば民も助かるわ」
真剣な顔でそう呟くサナを、アルゴは意外の目で見やる。
今まで彼の特殊な魔法を請うてきた王侯貴族は幾人もいたが、それを下々の人間にまで及ぼそうと考える者は一人もいなかった。
妹思いであること、そして頑なな信仰心に凝り固まっていることという二つの印象しかない彼女の違う一面を見て、彼は自分でもよく分からぬ落ち着かなさを覚える。
「材料があっても魔力がない人間には残念ながら作れません。でも、神職の方ならやり方をお教えすれば作れますよ。
 それならば私がいなくても問題ないでしょうし、いずれはそうするつもりです」
今はこの国に留まってはいるが、やがては旅を再開しようと思っている。
アルゴが先の予定を口にすると、サナは少し驚いた顔になった。
「何処かへ行ってしまうのですか?」
普段のきつさが薄れたその顔立ちは、アルゴの目には愛らしさをもって映った。
驚かれたことに驚きながらも彼は平然とした表情で頷く。
「私は元々旅人ですし。仕事が終わればこの国をお暇しようと思っております」
「アルゴ、行ってしまうの?」
「姫が充分元気なお体になりましたら」
妹姫の残念そうな顔は予想の範疇内である。彼は笑って手を広げた。
「その代わり、お別れする時には姫に何か一つ贈り物をいたしましょう」
「贈り物? 何?」
「そうですね。まだ決めてはおりませんが、姫の好きなものを何か」
他愛もない約束に少女の顔は輝く。アルゴは荷物を片付けると、部屋を辞すため二人の王女に頭を下げた。顔を上げた時、サナと目が合う。
―――― 少しは笑ってみればいいのに。
そう思ったのは彼の勝手な願いのようなものである。アルゴはすぐにその考えを打ち消すと部屋を出た。

美人ではない。
優しい女でもなかった、と思う。少なくとも彼には優しくなかった。
だが妹姫の笑顔や無邪気さが、彼にとって当たり前のものになっていったように、その姉のきつい言葉や凛とした態度もまた、アルゴにとって日常の一部となっていったのだ。
魔法についての進まない問答も、いつしかそういうものとして楽しんでいる自分に気付いた時、彼は愕然と自分の内心の変化を振り返った。
「まったくなあ。何だろうなあ」
「何がまったくなのですか?」
きつい眼差しを向けてくるサナは、手元で彼の持参した本を開いている。
魔法理論の総括を記したその本は彼が西の大陸から持ってきたものだ。アルゴは彼女が開いているページは何処か、向かいから察しをつけると笑顔を作る。
「そろそろ理解して頂けましたか? 世界には神などいないということを。
 その代わり世界には自然の力が満ちている。人の魂も死後はそれらと一つとなります。
 そして精霊魔法は法則を以ってその力を動かすのです。神など関係ありませんよ」
「その自然の力や法則を神がお与えになったのではないと、何故分かるのでしょう。元々在ったからといってそこで思考停止をするのですか?」
「神に与えられた、っていうのも充分思考停止だと、私は思いますけどね」
遠慮なくぶつかりあう意見の場に、今日は困り顔の少女はいない。彼女は王に呼ばれて席を外しているのだ。
その間サナと庭で二人きりになってしまったアルゴは、一向に退こうとしない女の頑迷さに上辺だけは笑顔を浮かべていた。
「大体、何もしてくれない神に依存するなんて、よくありませんよ。
 人は人の力で物事を為していかねばならない。神に頼ろうなんて、甘えと弱さを生むだけです」
「そのようなことはありません」
即座に否定する女の声は、いつも以上に強かった。サナはよく通る声で反論する。
「生きる上で心の支えの必要がない人間がおりますでしょうか。
 この自然にも人間にも、神のお力が満ちている。そう思えばこそ、人は自身の立つ土台の確かさを実感し、感謝を抱くことが出来るのです。
 貴方には私たちに見えぬ力も見えるのでしょうが、私たちにはそれが分からない。分からないものを他者に理解させることも難しいでしょう。
 ですから貴方が自身の学んだ理論を信奉するように、私たちは神の存在を信じる。
 それは甘えでも弱さでもなく、自分を、そして他を支える愛情なのです」
アルゴは彼女の持つ真剣さに息を飲んだ。
サナの言っていることには納得出来ない。彼とはあまりにも考え方が違う。
だがそこには、妄信と切り捨てることの出来ぬ強い意志が窺えるのだ。彼女は、彼が思うよりきっとずっと多くを考えている。
だからこそ彼女は、彼の持ってきた書物を突っぱねることもせず目を通しているのだろう。彼は自然と頭を下げた。
「失礼しました」
「どうしたのですか? 貴方らしくない。まさか信仰をお持ちになったので?」
「それはないです」
「でしょうね」
サナは相好を崩し笑い出す。
小さな花が咲いたような柔らかな笑顔。
初めて見る王女の笑顔に驚いた彼は、彼女が視線に気付いて気まずく顔を逸らすまで、じっとサナの笑顔を凝視していたのである。

最初の頃は無理をするとすぐに熱を出して臥せっていた妹姫は、アルゴの苦心の甲斐あってか徐々に年相応の健康さを取り戻していった。
彼がこの国を訪れてから半年、すっかり血色のよくなった少女は庭を散歩しながら「馬に乗ってみたいわ」と無邪気な願望を口にする。
「馬はどうでしょうね。もうちょっとお待ちになって下さい」
「そう? いつかは乗れるのかしら」
「多分」
アルゴの返事に彼女は手を鳴らして喜ぶ。そのあどけない笑顔を彼は自らも笑顔で見つめた。
この城に来たばかりの頃には、女官たちが「王女は不治の病で長くない」と噂している声を聞いたりもしたのだ。
だがその彼女も無事、来月には八歳の誕生日を迎える。アルゴはまめに調合していた魔法薬の成果を感じ取って達成感を覚えていた。
「それに黙って殿下を馬に乗せたりしましたら、姉君に怒られてしまいますからね」
「そうね。お姉様にはお話しなくては」
二人がそんな会話を交わしながら、いつもの椅子のところに戻ると、そこにはちょうどサナが立っていた。
妹を探していたのか蒼ざめた顔色の彼女は、戻ってきた二人を見てほっと表情を緩める。
「よかったわ。散歩に行っていたのかしら」
「ええ、お姉様」
「でもあまり日にあたっては駄目よ。この人と一緒ならば平気でしょうけど。気をつけて頂戴」
「ご心配をおかけしたようで、すみません。しかし殿下も顔色がよろしくないようですが……」
今にも倒れそうな様子のサナにアルゴは手を伸ばした。けれどその手は軽い音を立てて払われる。
その音に驚かなかったのはアルゴの方で、サナはむしろ見開いた目で男の顔を注視していた。狼狽が彼女の貌の上に現れる。
「ご、ごめんなさい」
「いえ。失礼しました」
頭を下げる男をうろたえた目で見ながら、サナはその場を立ち去る。灰色の女が見えなくなると彼は頭をかいた。
「また怒られてしまったなあ」
「お姉様、平気かしら」
「日にでもあてられてしまったんでしょう」
アルゴは妹姫もそうなる前にと彼女を促して宮殿に戻った。庭を行く間、男の視線は緑の中を彷徨う。
しかしそこに彼女の姿は見えない。彼は無意識のうちに息をついた。

あまり長居をすると別れが辛くなる。
彼がそう思ったのは、既に充分すぎるほど長居してしまった後のことだった。
すっかり健康になり、馬にも乗れるようになった妹姫に最後の検診を済ませたアルゴは、約束どおり彼女に別れの品を手渡す。
「まあ、花が硝子に入っているの?」
「水晶です。魔法で封じてあるので枯れません。姫はこの花がお好きでしょう?」
「ええ。一番好き。ありがとう」
少女は礼を言うとそれを受け取った。嬉しそうな、しかし淋しそうな笑顔。
だがそれも、アルゴが「サナ殿下のところへご挨拶に向かいます」と言った瞬間、不思議なほど深刻なものへと変わる。
「アルゴ、貴方はすごい力を持っているのよね」
「凄い、かどうかは分かりませんが」
「貴方ならお姉様を助けられるのでしょう? お姉様はそう仰っていたけれど」
「え?」
「だって……」
躊躇いがちながらも、確かな希望を込めて語られるその内容にアルゴは呆然と耳を傾ける。
そうしてようやく全てを知った彼はサナのもとへ走ると―――― もはや寝台から起き上がれない彼女を目の当たりにしたのだ。

「どうして俺に何も言わなかったんだよ!」
言葉を取り繕うことさえしない叫びにサナは苦笑する。
普段は頑なに見せない首と腕。部屋着の端から見えるそこは既に黒ずんで変色しており、彼女の病の深刻さを窺わせていた。
アルゴは細い手首を取り、爛れた肌の上に指を触れさせる。
「不治の病で長くない王女」
それを彼はずっと妹姫のことだと思っていた。
だが、噂話が指していたのはサナであったのだ。
アルゴは歯軋りしながら彼女の体内に魔力を注ぎ、容態を確認する。しかし診れば診るほど絶望を覚えるそれを、彼女は途中で留めた。
「いいのです。私はずっと昔、妹が生まれる前に魔法士に診てもらったことがありますから」
全てを受け入れきった言葉。
しかし彼は彼女が治療を拒んだことだけでなく、「魔法士」という言葉を使ったことにひどく驚いた。
この国ではそれは神の御使いということになっていたのではないか。そう問おうとした時、サナは部屋の本棚を指差す。
「あの、裏を」
「何?」
アルゴは訝しみながらも言われたとおり、本棚の裏を覗き込んだ。
よく見ると棚は横に動かせるようになっており、その奥からもう一つの書棚が現れる。
「これは……」
そこに収められている数十冊の書物は、全て魔法に関しての研究書であった。
アルゴが呆然と背表紙に目を走らせると、そこには西の大陸で書かれたものさえ混じっている。
寝台に臥せったままのサナは震える声で笑った。
「貴方が来てから、私も色々と調べたのです。そしてあることを知りました」
「……何を?」
「魔法には、人の魂を力として使う術があるそうですね。
 私は貴方にそれを施してもらいたいのです。まもなく死ぬ私の魂を、どうかこの国の祝福の為に」

何から言えばいいのか分からない。何を言えばいいのかも。
一瞬で目の前が真っ赤になったアルゴは、気付けばサナの両肩をきつく掴んでいた。
「あんたは……俺にそんなことをさせるつもりなのか! 人の魂を使うなんて禁じられた術だ!」
「分かっています。申し訳ありません。ですが、それでもお願いしたいのです」
「馬鹿だ! あんたは何も分かっちゃいない! それは死んだ後も魂を縛られるってことだぞ!
 大体なんだ! 生きようって思わないのか! 生きたいって思わないのか!」
彼女はおそらくもう助からない。そんなことは一目見た時から分かっている。
出会った当初病のことを聞いていたとしても、助けることは容易ではなかっただろう。彼女を連れ西の大陸に戻りでもしなければ。
やはり神など何処にもいないのだ。
神がいるのなら、何故彼女は救われないのか。
病みつかれた体を支えるアルゴに、サナは囁く。
「貴方は、妹に一番好きなものを贈ると約束していましたよね」
「……ああ」
「ならば私にも、同じものを頂きたいのです」
彼女の声は優しい。
どうして優しく聞こえるのか、アルゴは分かりたくなかった。零れていく命を留めるように彼女の背をそっと抱く。
「どうか私に民の幸福をください。それが私の欲しいもの、一番大切なものです」
真摯な願いに、彼は言葉を返すことが出来ない。
沈黙したままアルゴは彼女の肩に顔を埋め、そうして己の無力を呪った。



剣を常に持ち歩いていたのは、旅をする時の護身用である。
魔法に頼るのではなく剣に頼る―――― それはこの大陸に渡ってきた時に、彼が決めたことでもあった。
しかし今、アルゴは自身のものではない剣を手に、これが終わったら二度と剣は持てないだろうと予感を覚えている。
王や妹姫、そして臣下たちが黙して立つ広間を彼は無言で通り抜けると、奥の神殿に足を踏み入れた。
白い石で作られた、美しく静謐な空間。
他の誰もいないこの場所には、今は一人の女がいるのみだ。
神職の祭儀服を着た男は、祭壇に横たわる女の前まで行くと、目を閉じている彼女に話しかける。
「サナ殿下」
「はい」
「よろしいですか」
「ええ」
彼は剣を鞘から抜き去ると、詠唱を始める。
高い天井に男の声はよく響いた。抑揚のないそれをサナは微笑んで聞く。
「貴方は、神はいないと言うけれど、私はそうではないとやはり思うのです。
 自然への感謝。そこかしこにある幸福。人を思う感情。
 そのようなものの中に、いつでも神はおられる。人の心にこそ神は在る。
 だから私も同じようにこの国に在りたい。民の力となってこの国を支えたい」
祈りは詠唱と混ざり合い、神殿の中に溶けて消える。
全ての準備を終えたアルゴは両手で剣を掲げると、静かな目で王女を見つめた。
実らなかった願い、伝えなかった言葉が、胸の奥で乾いた砂のように流れていく。
幕を引く最後の瞬間。死に行くものは一体何であるのだろう。男は最後の言を彼女に贈った。
「私は神などいないと今でも思っている。
 もしもそのようなものがいるとしたら―――― それは、貴女だ」






昔話に聞き入っていたルースは顔を上げた。隣の女を覗き込む。
「それで? その後どうなったんだ?」
「彼は国を出て行くことをやめました。剣を置き、神職の座を引き継いで終生この国の為に力を尽くしたんです。
 おおっぴらには語られていませんが、随分変わった神職だったそうですよ。神よりも祝福の王女のことを崇めていた」
「なるほどな」
今は遠き日の話。
しかしそうして国の為に身を捧げた者たちの思いが、この国には数多く残っているのであろう。
ルースは神職の血脈を継ぐ女を眺めた。すっかり冷え切ってしまったその手を取る。
「一番大切なもの、か」
それは人によって異なるものだ。かつての王女は国と民が、そして彼女に殉じた男は彼女の願いが、それにあたるのだろう。
彼は自国の未来を何よりも願う恋人を抱き寄せると、その頭を撫でる。
「お前にもそれをやろう」
彼女に何かを返したいと、思っているからこそルースはここにいる。
国と人を、そしてその中にある居場所を、彼女の手の中に取り戻してやるのだ。
しかしこれからのことを示すルースに、女は困ったように微笑んだだけだ。温められた手が男の頬に添えられる。
「ありがとうございます。―――― ですがそれは既に頂いておりますので」
甘やかな喜び。
そう言って彼女はルースに向かって首を伸ばすと、祈りを捧ぐようそっと口付けた。